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津屋崎・毎日の大切なこと

津屋崎で日々暮らすなかで、耳にし、目にし、口にする、いろんなモノゴトを、自分の軸を持って綴ります。

渡にホタルが戻ってきました。

さっきランニングで渡の畑を通過したところ、

フッと光るのが見えて、よくよく見るとホタルでした。

 

生まれてこのかた、渡で見たこともなければ、

ホタルがいるという話も聞いたことがありませんでした。

 

嬉しい限りです。

たぶん農家さんが減ってきたことが効いてるのでしょう。

 

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そして、今日は、嬉しかったので、お祝いビールです。

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学生の役割のなさ

中学生(本当は中高生だけど)を対象として部活動を初めてつくづく思うのが、

タイトルにした、社会における学生の役割のなさ、についてです。

 

中学生と言えば、義務教育があとたった3年で終わる時期。

 

役割もなければ、役割につながっていくような「緩やかな階段」すら存在していません。

 

さらに、中学校に入ると部活動に入らないといけないという風習があります。

しかもスポーツばかりで、とても少ない選択肢の中から選ばないといけません。

授業中も社会から切り離され、放課後も切り離されているわけです。

たしかに結果論として、スポーツの部活で培われるものを主張することはできます。体力、忍耐力、協調性など。

でもそれって、スポーツじゃなくても培えるんですよね。

しかも、たぶんスポーツで培わないほうが、実用的なんですよね。

 

私たちは、経験から当たり前に感じていますが

学校の部活動でスポーツをする正当性って、実は存在してないんですよね。

むしろ、それらは場違いで、「なんで学校でそんなことやってんの?しかもそれで先生忙しそうじゃん。」というのが普通なんです。

たまに、部活動見たくて先生になっている人もいる、と言う話を聞きますが、

おい、やめてくれ、と思ってしまいます。

 

※「私は、スポーツ部活動で今の自分がある!」と反論したくなる方もいらっしゃると思いますが、それはそれです。それを否定しているわけじゃありません。ただ、そういう話をしてるんじゃないということだけはご理解ください。

 

さらに、義務教育最後の年である中学校三年生に焦点を当ててみると、

社会に出た時のためのプレテストは一切なく、

大半が何の役にも立たない受験に重きが置かれているのです。

 

私たちが作ってしまった子供達の不幸の一つがこの教育だと思います。

 

部活動は、すべて民間に移し(スポーツの場をなくす訳じゃない)、

学校で放課後も子供達を拘束するなら、

それは社会との接点の時間にすべきだと思います。とくに中学校からは。

 

また、その社会との接点作りは、学校ができないこと(部分)を積極的に認め、

地域に頼ることを行うべきだと思います。

 

さらに、外部(地域)との連携を効率化するため、小学校から中学校までの義務教育期間中は学年教諭の変更はなしにし、先生の他校への移動も原則なしにすべきです。

シュタイナー教育はそうらしいけど、シュタイナー信者ではありません。

学生企画実行部 活動してます。

4月から活動を開始した学生企画実行部ですが、

最初の企画を「福津市住みよいまちづくり推進企画」へ提案しました。

 

課題は、「地域自治の仕組みをつくり、地域づくりをすすめる」

を選びました。

 

問題発見のプロセスは、

町の関係性の洗い出し

→希薄な関係性の発見

→その希薄さが持つ問題の想定

 

という段階を踏んでおります。

 

結果的に、

高齢者と小学生の関係性を改善して、地域の見守り効果を上げるとともに、

高齢者に役割がある地域にするというもの。

 

審査がどうなるかわかりませんが、

落ちたとしても実施する予定です。

 

 

 

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ありがとうの会 開催のお知らせ!

津屋崎野菜の宅配便をご利用の皆様へ

 

昨年の6月末に行いました、「ありがとうの会」を、

今年も行いたいと思います!

 

「ありがとうの会」とは、

その名の通り、感謝を伝える会です。

作ってくれている人と、食べてくれている人が、

一堂に会し、お礼を伝え合うという機会です。

 

農家さんから見れば、

食べてくれる人がいるから、自分の仕事が成り立ちます。

でも、ほとんどの場合、誰が食べているかしりません。。。

 

消費者から見れば、

作ってくれる人がいるから野菜を食べることができます。

でも、ほとんどの場合、誰が作ってくれているかしりません。

 

お互いに、お互いを成り立たせている当たり前のところを、

知らないんです。

 

みなさん、

「何かしてもらったらちゃんとお礼を言いなさい!」

と言われて育ってきたかと思います。

私たちの世代だけじゃなくて、ずっと前からそうだと思います。

 

そして、これからも、子供達にはそうやって教えていくと思います。

 

だから、まずは私たちがしっかりやりましょう!

 

農家さんが消費者のことを知っていて、

消費者も農家さんのことを知っている。

そして、お礼を言い合えるような関係が、当たり前になれば、

きっと未来の子供達にとっていいことが起こると思っています。

 

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と き:6月25日(土)13時開場 13時30分開始 14時30分終了

ところ:三粒の種 浜の家(福津市津屋崎4−5−1)

参加費:無料

お申込:info@san-tane.comまでメールをください。

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お礼を言い合える関係が当たり前になることで起こりそうないいこと

・近い関係で野菜が流通すれば、農家さんは安く買い叩かれることがなくなるので、

大量生産する必要がなくなる→一軒の農家に50軒の一般家庭が繋がって野菜をやり取りすれば、農家は成り立つし、一つ一つに手間暇をかけられるようになるので、美味しくなる。

・大量生産をしなくて良くなると、農薬や化学肥料などの効率を重視するために使われている資材を使わなくても良くなる→環境への負荷が減って後世に自然を残せる

※農薬などの害がなくなり安心安全を強調するためには、まずは個々人が生きるに価する人間になることが先だと考えています。

・耕作面積を狭めることができれば、大型重機や大型施設の導入の必要がなくなり、永続的な農業を行えるようになる。

・何よりも、ありがとうと言われて、農家さんも、消費者も嬉しい。

 

これらがすぐに起こるわけではありませんし、おそらく数十年、もしかしたら数百年かかるかもしれません

ですが、このようなことが起こってほしいのであれば、お礼を言い合える関係を作っていくことが、最優先事項だと思います。

 

というところで、三粒の種をご利用のみなさまは、できる限りご参加ください♪

 

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「三粒の種」とは、なんなのか。

三粒の種のお話

「そこにある当たり前を捉え表現し続ける。」

というのが、私たち三粒の種のミッションです。

 

重要なのは、「当たり前」というところです。

「当たり前」を認識できる過程を、常に提示し続けるということです。

私たちが日頃明確に認識できなくなったところに、「当たり前」のものとして、私たちを成り立たせている事物があり、そこに本源的なものがあるからです。

 

これを何のためにするのか、というと、

三粒の種という言葉の意味である、「視野」を持つためです。

 

一粒は虫のため、

一粒は鳥のため、

残りの一粒は人のため。

 

虫と鳥と人のためにやる、という意味ではありませんからね。笑

 

そのような「視野」を持つべきだということです。

私たちは部分であり、その他の数多の部分と共に一つのシステムを構成し、

生きるわけでも生かされるわけでもなく、ただ在るのです。

 

そして、そのような「視野」を、なぜ持つ必要があるのかというと、

「与える経済をつくる」ためです。

 

ここからは教養の問題と解釈の問題で想起できるかできないかに分かれるのですが、

人類の歴史において、現在のような奪う経済が行われている時間よりも、

与える経済が行われていた時間の方が圧倒的に長いんですね。

※教養がないと、いくらわかりやすく言ってもわからないことはあると思っています。これは50音を読めなければ、あるいは最低限の単語を知らなければ、日本語を読めないあるいは理解できないのと同じです。

 

私は、かつて考古学という学問をしていて、

弥生時代から古墳時代にかけての国家形成論を学んでいたのですが、

私の知る限り、現代と変わらない仕組みで経済が回り始めたのは、

弥生時代の中期ごろからです。

 

自集団の再生産の手段として採用された経済活動に、

搾取が伴い始めたのが弥生時代の中期ごろということですね。

なので、今の経済が日本のタイムスケールでいえば、2500年で現状に行きついたということです。

 

それ以前は、

自然との関係においては「与えられる」という感性で関わりをもち、

自集団内では、「与える」ことが地位であり、

他集団との関係は、「与えること」で競争をしていました。

 

人類史において、こちらが圧倒的に長いんですね。

 

当然のことながら、全ての地域がそうだったかはわかりません。

もちろん、一説という言い方をしてしまえば、それも間違いありません。

 

ただ一つ、

このような経済が存在していたというのは間違いないんです。

 

私はたまたまそのことを知っているので、

今の先(終わり)が見える経済ではなくて、与えることで回る経済をやりましょうよ。と思っているわけです。

 

しかし、昔と現在とで決定的に異なるハードルが存在しています。

それは「認識」というハードルです。

私たちは生きていく上で行う交換という行為全般を、現在の経済の価値観で認識してしまっています。

だから、かつて行っていた与える経済を行うためには、その認識を理性によってコントロールする必要があるのです。

 

その理性というのが、上の方でいった「視野」ということになります。

ちなみに「視野」を持つためには、「教養」も必要だと思っています。

昔はこんなのなくたってできたんですけどね。だって、そのような経済しかなかったから。笑

 

私たちは、今目の前に見えるあまりにも多い答えらしきものの中から、不要なものを切り捨てて、選択するということをしていかないといけません。

 

私にとって、

農も、教育も、そのような視野を持つための一つの構成要素に過ぎません。

過ぎません、といっても、大事じゃないという訳じゃありませんからね。

それらが全てではない、それ自体が目的ではない、ということです。

 

農を行うことに関しても、

教育を行うことに関しても、

近視眼で捉えれば、「安心安全野菜だー」とか、「自立した人間形成だー」とか、

そのように見えるかもしれません。

ですが、500年後、1000年後、私が提示する視野が、どのような具体的構造を取るかはわかりませんが、「与えることで回る経済」を実現すればいいなと思っています。

 

未来のために、よりよい源泉であることを常に行うということでしょうか。

 

これからも生きるのであれば、

価値のある「生物」として生きていきたいと思います。