津屋崎・毎日の大切なこと

津屋崎で日々暮らすなかで、耳にし、目にし、口にする、いろんなモノゴトを、自分の軸を持って綴ります。

教育

私たちは社会を作った。

「私のものである。」それが膨らみ、

家族が個となった。

そして、家族が重なり集団となり、

それが連なって国家となった。

 

「私のものである。」

 

それを守っていくために、

私たちは社会に在り、怯え、

囲いの形を変容させながら生き延びている。

 

私たちは社会を作った。

 

私たちの社会は、私たちを守るためにある。

 

だから、後世の子達にも、その社会の在りようを守ってもらわなくては、

私たちは守られない。

 

きっと、そこで教育が生まれた。

 

私たちが作った社会を守り、

そこで生きてもらうための手段としての教育。

 

「よりよく生きてもらうために教育をする」

 

甚だ馬鹿げた話だ。

 

生きてもらうための舞台は、整っているのだろうか。

 

全てを手放して、

「私たちはなぜ教育をするのか?」

それを考えたい。

 

現実、現状それらを一旦宙吊りにして。

 

 

 

感性は、関わる人で変わる。

中学生はやたらとゲームをする。

 

僕も学生の頃はしていた。

 

子供の好きなものの代名詞だし、

大人が嫌がるほど、子供たちは悪いものだと思っていない。

 

なぜゲームが好きなのか考えて見た。

 

結局は、

1、成長を手に取れる。

2、その成長が早い。

3、欲しいものが簡単に手に入る。

4、裏がある。(奥行きとか深さといってもいい)

 

からだと思う。

 

たぶん、人生の本来の楽しみが、インスタントに享受できるのだ。

 

 

だから、たぶん「楽しい」からやっていることと、

ゲームには大差はないんだと思う。

 

仕事も、町づくりも、ボランティアも。

 

バーチャルも現実の違いがあるだけで、おそらくレイヤーの違いはない。

 

そして、バーチャルが悪で、現実が善とも言い難い。

 

なぜなら、バーチャルは架空の出来事だけど、

現実は、実際に害悪を生むからだ。

 

仕事も、町づくりも、ボランティアも、

それ自体が害悪になることもあるし、

そのことによって快適に人間が生き始めたらさらに害悪を生む。

 

その中に埋没してたら、それが善に感じるけど、

引いてみると、善でも悪でもない。

 

最近は、中学生のゲームも、仕事も、町づくりも、ボランティアも同列で、

善でも悪でもない、というふうに感じる。

 

だから、結局、自分が興味を持てるものだけ、

好きな形でやっていればそれでいいのだと思う。

夕方。

夕方。

 

ほうちゃん(犬)が、

僕の部屋にやってきた。

 

「暇なんですけど」と言わんばかりの表情で、

扉の方から、こちらを見ている。

 

ほうちゃんが、階段を上がる音を聞いたさくちゃん(猫)も、

やってきた。

 

「なんしようと?」と言わんばかりの表情で、

ほうちゃんを見ている。

 

夕方の西日が、カーテンを掻い潜って彼らを照らし、

なぜか僕は懐かしさを感じた。

同化

空間というのは、思っているより区切られているのかもしれない。

 

だから、入っていないところに入っていることもある。

 

空間の仕切りは、壁や扉だけではないということだ。

 

何かの空間に入ると、たぶん複数の存在というのは同化を始めるのだと思う。

万有引力みたいに。

 

お互いに意識しあえばしあうほど、同化し始めるのだと思う。

 

その存在同士の多くの部分が同化し始めた時、

少しの違いが気になり始める。

 

きっとそんな時必要になるのが、

入っていることに気がついていない空間から、

一度出てみるということ。

 

そうすると、その少しの違いがいかにどうでもいいことかわかり、

さらに、同化できた部分の尊さ、愛しさを感じ始める。

 

そして、罪悪と明瞭さを糧に愛を持ち直すのかもしれない。

誰が誰を怒ればいいのだろうと思った。

先日、友人に誘ってもらって、中学生たちとともに朝倉のボランティアへ行ってきました。

 

印象的に、あんまり進んでないです。

ボランティアさばきも大変そうでした。

そりゃー、毎日どんな人が何人来るか、わからないから、難しいですよね。

 

ボランティアへ行ってみて感じたことなんですが、

ちょっとだけ、困っている人がいるから助けに行くというレイヤーとは違う話をしようと思います。

 

今回の災害は、大雨による洪水が原因ですが、

昭和の前半にも起こっているそうですね。

 

さらに地形を見ると、なんども河川の流れが変わっているのがわかります。

 

神社もよく見ると高台にあるんですよね。

 

あの場所は、少なくとも百年に一回くらいは同じ規模の災害が起こっているんだと思います。

 

「いや考えたらわかるやん、そこ危ないやろ。」というのは、誰かが言ってもいいと思うんですよね。

「そうなるのわかっとるところに畑作ったり、家作ったりしとってさ、自業自得やん」という人がいてもおかしくない。

 

さらに、

「そんなところにお金と人の力使うくらいなら、他にもやることあるやろ。どうせそこ復旧しても数十年後には同じこと起きるよ」と効率的なことを言う人もいてしかりだと思うんですね。

 

でも、そう言う視点の人は、表に出てこないですよね。

そう言う人の視点も交えて、先を考えないと、同じこと繰り返すと思うんですよね。

 

まあそんなこと言ったら叩かれるんでしょうけど、このご時世。

そういうのは、優しさとは別の話だと思うから、

感情で叩いちゃいけないことなんですけどね。