津屋崎・毎日の大切なこと

津屋崎で日々暮らすなかで、耳にし、目にし、口にする、いろんなモノゴトを、自分の軸を持って綴ります。

どんな子に育ってほしいですか?

どんな子に育ってほしいですか?
と問うたら、
「優しく思いやりのある子」と答える大人がほとんどなんじゃないかと思う。
少なくとも、他人の非を責め叩き潰す子に育って欲しいと言う大人はいないのではないかと思う。
私たちは、共同で、社会という子を育てていることを忘れてはいけない。
どんな社会であってほしいですか?
と問うたら、
「優しく思いやりのある社会」と答える大人がほとんどなんじゃないだろうか。
少なくとも、他人の非を責め叩き潰す社会であって欲しいと言う大人はいないのではないかと思う。
戦争発言議員のことしかり、
地元の中学校の教員のことしかり、
駄目なこといった議員がいたら、
「このボケが、くそアホが、消えろ!」じゃなくって、
「なんでそんなこと言っちゃったんだい?そこまで言うってことは何か強い思いがあったんでしょ?どうしたらもっと良くなると思ってるの?話したい言葉ではなしてよ。君とわかりあえたら、そのあと迷惑かけた人に一緒に謝り行こう」だし、
駄目な先生がいたら、
「どういうことだ!そんな人にうちの子は預けられん!替えろ!」じゃなくって、
我が子に「先生にも得意不得意がある、不得意なところがありそうなら、それをどうやったら助けられるか考えてあげなさい。みんなにもそうやって伝えたらいいよ。助けるつもりのない子がいたら、助けられるように大人が力を貸すから、良いクラスになるようにみんなで協力しなさい」だと思う。
子どもを育てることは社会を育てることであって、
子どもは用意された社会を享受するしかない。
だからこそ大人には責任がある、と言ってしまいたくなるが、捉え方は個々人の自由。
むしろ、その自由の中で立場が選択されていくことが重要なのだと思う。

どこへ向かうのか。

どこへ向かうのか、

ということを考えるうえで、

歴史を使えるかは重要。

 

「教養」といった方がいいのかな。

どうも歴史と言ってしまうと、義務教育課程の弊害により、

通時的な出来事まとめのように認識されてしまうので。

 

概ね、通時的な出来事まとめに構造主義的なフィルターをかけられていたら、

最低限の解釈はなされているのかなと思います。

 

昨今、水面をバシャバシャと叩く活動が多く、

それが非常に「わかりやすい」(悪い意味で)ので、

浸透してますね。

 

かつてのギリシャでは、

不安定な時代にソフィスト(詭弁者)がはびこり、

それぞれが好き勝手言って混乱を招きました。

 

この混乱は、一定の価値を持っているので、必要なことではありますが、

現在はその状況にあるということは認識しておくべきでしょう。

 

あと5年で、社会がどう動くのか。

戦後からしたら、最も大きな転換点になることは間違いないと思います。

 

このタイミングでどのように振舞うのか。

それが、今の時代を生きる大人の価値を決定づけるものとなるでしょう。

 

「歴史」というものを、執着ではなく、

未来の誇りのために使うことができるか。

 

世界に存在するということが、ノーボーダーでとらえられる精神性を、

一般的に醸成できるか。

わかりやすく言うと、年間1兆円稼ぐ人と、一円も稼がない人との間に差はないことを、「みんな」が理解できるかどうか。

 

ただ町を歩いていると、ビールの缶、たばこなどが道に捨てられていて、

すべてが遠く感じるのです。不可能なのだろうという諦めすら襲ってくるのです。

教育とは、元来必要のない過程である。

「教育とは、なぜ必要か?」ということを考えたことがあるだろうか。

 

「教育とは、元来必要のない過程である。」

これが前提になくてはならない。

世界は、そのようなものがなくても生きていけるように出来ている。

 

決して、「社会に適応するために必要不可欠である」という前提で始めてはならない。

決して、「豊かさを得るため、自由を得るために必要不可欠である」という前提で始めてはならない。

世界は、本来、それぞれの存在に合わせてくれる柔らかさを持っているし、

それぞれの存在は本来、豊かで自由だからだ。

 

教育で提供しようとする豊かさ、自由は、虚構であり、

貧しさ、不自由に対してその場しのぎの上塗りをしているに過ぎないことを、忘れてはならない。

そして、その貧しさと不自由に、教育を行おうとしている自分自身も加担していることを忘れてはならない。

 

だが、この社会を作ってしまったからには仕方がない。

 

彼らを不自由にしたことに対して頭を下げながら、

彼らが、自由であれるように、広げるしかないのである。

 

教育の点

未来に点を打つ。

 

おおむね、現在の延長線上で考えるのではなく、

ずっと、あるいは、少し先の未来に、

何者にも左右されない在りたい姿(点)を置く、

という感じで使われる。

 

 

 

 

教育では、本来これだけを行えばいい。

 

人、という存在に、そんなに大きな幅はない。

人として生きるのであれば、方向はほぼ同じである。

 

だから、「先生」という存在は、

彼らに点を想像させればいいだけなのだ。

 

 

 

言葉にされていないことを言葉にする

言葉にされた部分で行動することは簡単。

 人が安心しているときは、おおむねこの中にいる。

 

一方で、

 

言葉にされていない何かを言葉にすることは難しい。

 

言葉にされていない何かを言葉にするためには、

できる限りシンプルなシステムの中に、種を植え付け、

時間をかけるしかない。

 

言動の積み重ね、雰囲気の積み重ね、多少のぶち壊し

が必要なのである。

 

おそらくは、宗教的に祈りに近い所作となる。

学校の先生はすごい

地域のお祭りで子ども山笠の準備をしています。

 

子ども山笠は、50年ほど前になくなっていて、

3年前に学校の授業の中で地域と連携し復活しました。

かなり本格的なものとして。

これにはいろいろと物語がありますが、割愛。

 

学校が復活させてくれた子ども山笠が、

その翌年から「よっちゃん祭」という地域のお祭りの中で、

町の中を駆け抜けるようになりました。

 

今年は、それも3回目で、

復活させてくれた学年が、6年生になり、

子ども山笠に関わる最後の機会なんですね。

ですので、「最後だから自分たちのものとして、実行委員やらないか?」と募集したところ、なんと17名もの実行委員が集まりました。

 

ちなみに、クバーラ大会という結構人気なスポーツの実行委員を

募集したところ、小学生からの応募は1名でした。笑

 

実行委員という立場には、向き不向きもあるので、

学年全体の10%以上が参加していることはすごいことだと思います。

 

たしかに、子ども山笠の復活は「すごかった」し、

今でも小学校の文化祭では、3年生行事ながら全体の中でもトップクラスのコンテンツになっています。

 

で、本題です。

 

 

僕は、今、

「子ども山笠を作り上げる」という意志を持った17名をみているので、

かなり厳選されていて、バイタリティーの高い状態の集団を相手にしていることになります。

 

実際、彼らのバイタリティーは想像を超えていて、

小学生の主体性を大事にするという点で行くと、

僕のコミットは7で、子どもたちの自由度は3くらいだろうとみていました。

でも蓋を開けてみると、僕のコミットは4で、彼らの自由度は6で成り立っています。

 

当然、彼らの経験から、集中力の持続時間に短さはありますが、

毎回の会議1時間の中で、どんどん進んでいきます。

 

ただそれでも、僕の中で引っかかる心の動きというのがあります。

 

実行委員形式で行っていますが17名もいると、

数名、低いパフォーマンスを示したとしても、成り立ってしまうんですね。

 

その時に、「まあいいか」と思ってしまいそうになるんです。

 

その低いパフォーマンスを示した子の、自己有用感を損なわないために、

その子を輪の中心に据え、動機づけするための選択肢はいくつかあります。

 

でも、「まあいいか、この差を放っておいても組織としてはそれがプラスに働くこともある」というのがよぎるんですね。

 

何のためにこの実行委員会を設けているのか、

子ども山笠自体のクオリティーを高くすることが大事なのか、

実行委員に参加してくれている子たちの高い自己有用感の方が大事なのか、

下に合わせれば、高いバイタリティーの子は全力を出す機会を失う、

上に合わせれば、下の子は虐げられる、

そんな葛藤がめぐるんですよね。

まあこれは葛藤しながらベターでやっていくことしか出来なくて、

ベストな答えはないんですけどね。

 

ただ、これは、

そもそも自分で立候補してきたバイタリティーの高い17名を相手に起こっていることなんですよね。

 

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学校の先生って、

いつも常に倍以上の子どもを相手にします。

しかも、立候補とかじゃなく、

ただそこに行かないといけないから来ている子たちを相手にしています。

 

だから、パフォーマンスの低い子なんてたくさんいますよね。

そもそも「やりたい」という宣言すらしていない子がほとんどなわけだから。

 

 

頑張る意志のない人を頑張らせることは難しいし、

しかも、「この押しつけは健全なものなのか?」という葛藤は常につきまといます。

 

さらに、4−5人位でできることですら、常に「みんな=30人ー40人」がそれぞれ自己有用感を感じながら活動できるように、と試行錯誤しないといけません。

 

それを、毎日、毎年、です。その期間、ほぼ葛藤です。

そりゃーK先生も、クバーラ大会に二日酔いで遅刻しますよ。

 

 先生というのは、そこに今日もいてくれるだけで、

すごいことをしてくれてるんだなと思います。

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昨今、メソッドやセオリーに頼りたがる方々をたくさん見ますし、

ささやかな人数の意識高い系の子ども集めて実施した活動の成果を、

「教育とはこうあるべきだ」的に声たかだかに仰る方々もたくさん見ます。

 

それはそれでハイヤーエデュケーションとしていいし、

必要なことなんだけど、

 

その活動の当事者以外の我々のような地域のおっさん、おばさんは、

「ほうほう、そんなことをやっている人もいるんだな」と思う程度にしておいて、

 

まずは、毎日、多くの子供達と向き合う先生への、

深い理解が先だし、

そこへの協力が最優先だと思うんですよね。

 

 

一度見たら、その後は見ていない

さいころから、人の顔と名前を覚えるのがあまり得意ではない。

顔を覚えるのに全神経を注いでいて、名前を言われたときにそれに集中してないからだ。

 

その代わり、人の顔というか形状とか仕草は、すごく覚えがいい。

 

ずっと人の認識に違和感があって、

最初に見て、そのあとはおそらく認証作業しか行われていないんじゃないかと、

つまり、見たことがあるか、ないか。という作業しかやってないんじゃないかと。

 

じゃないのかなー、と思っていたら、最近ナショジオワイアードで記事がでていた。

 

その人がその人である部分って、すごく少ない。

構造主義的に、「差異」を見出していくと、

人は限りなく観念的に細くなる。

 

本質的に表現しようとすればするほど、細くなる。