津屋崎・毎日の大切なこと

津屋崎で日々暮らすなかで、耳にし、目にし、口にする、いろんなモノゴトを、自分の軸を持って綴ります。

山笠に関する見えるものと見えないもの、そして政(まつりごと)

津屋崎には、300年の歴史をもつ津屋崎祇園山笠がある。

 

この祇園山笠は、無病息災を祈るお祭りとして実施されている。

祭神は、素戔嗚尊スサノオノミコト)。

300年前にお櫛田さまから勧請していただいた神様だ。

 

このお祭りには、小さい頃から参加していて、

高校、大学、大学院(ちょっとだけ)と津屋崎を離れていたものの、

帰ってきてからは引き続き関わらせていただいている。

 

私は、この山笠を、

「伝統文化」であり、

「伝統政治」だと思っている。

 

見える部分だけを切り取ると、

そこにあるのは、

 

とても重いものを一緒に作り、喧嘩をしながら町を走り、酒を飲む、

そして、その酒の準備は「ごりょんさん」が行なっているという部分。

 

見えるところだけみると、

このご時世、意義を感じられにくい「行事」であると思う。

 

しかし、

見えない部分というのがあって、

その機能というのは絶大なものだと感じている。

 

・年のうち1ヶ月間、近隣の方と深く関わる機会が生まれる。またその繋がりが大切にされる

・「考えが違って殴り合うかもしれんけど、それで嫌いになったりするわけやない。やから遠慮せず意見を出し合おう」という宣言がなされる。

・80代くらいの大先輩から小学生まで「活気」づく。見物にきた人たちも活気づく

・最近は、移住者が町に溶け込むキッカケともなっている。

 

とはいえ、「なんでやるんですか??」と聞くと、

おそらくほとんどの人が「楽しみやけんよ。」と答えるだろうと思われる。

 

だから、山笠は300年続き、成功しているのだろう。

 

「みんなの楽しみ」であると同時に、

地域のつながりを強化し、幅広い世代の住民を活気づかせ、

移り住んできた縁もゆかりもない人たちを、地域の者とさせている。

 

無病息災を祈る、と言いつつ、

そもそも、それ自体が、地域が元気になり、住民が心身ともに健やかに歩む機会なのだ。

 

こんな仕組み誰が考えたんだ!天才か!と思う。

 

そして、これが、祭り事であり、政(まつりごと)であり、

政治なのだと思う。本当は。

 

伝統文化だから続けたい!ではないし、

楽しみだから続けたい!(楽しみではある)ではないのだ。

たぶんそれだけだと、

もうどこかで途絶えていたと思う。

 

きっと必要だから、必然的に続いてきたのだ。

 

神様の後ろ側に隠した本当の役割。

 

聖一国師さんが、最初からデザインしていたのかはわからないけど、

同じ質のものを新たに作れと言われても、作れる自信はないし、

知っている限りどこを見渡してもそれができそうな人はいない。

 

でも、それができる人でありたいと、心から思う。

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This is nobuki speaking.

先生には時間が必要

学習指導要領が切り替わるということで、

アクティブラーニングという言葉が行き交うようになりました。

 

存在として確立する前に、

もうすでにビジネス用語になっているのは気にくわないです。笑

 

僕の愚痴はいいとして、

アクティブラーニングって、いわゆる主体性を育みましょうよ、という教育を指します。

 

自分で考えて、自分で行動して、自分で形にしたりする、

そういうことを、やっていきましょうよ。そんな感じ。

 

これは、今までの「答えを教える教育」だけじゃダメだよねって文脈の中で、

生まれて来ました。

本当はゆとり教育がやりたかったことであって、言葉変わってるだけだよね。と僕は思っています。

 

実は、僕らが思っていること、

「ただ暗記させたって、大事なのはなぜそうなったのかだよね」とか、

「生きる力が大事だよね」とか、

「もっと子どもたちは自由であるべきだ」とか、

そんなことは、すでに考えられていて、それを実現するための大きな力というのは、

働いて来てるんですね。

 

じゃあ、なんで、うまく行っていないのか?

なんで、学校の現場は、その理想とは程遠いのか??

 

それは、単純に、トップの時間計算ミスだと思っています。

(あとは「学習塾」の害悪というのも確実にあるけど一旦それはエポケー)

 

単純なところだけ話すと、

 

先生「今日は〇〇をします。なぜなら、〇〇という理由だからです」

という今までの一般的な過程に対して、

子ども「〇〇をしたいです!なぜなら〇〇だからです!」

という主体的な立場に持っていくためには、

待つ時間(子どもたちが考えて、大人が決めない時間)が、

今までの5倍(適当、ただ5倍で足りるか不安)は必要になって来ます。

 

上記の前者、先生による説明は、5分もあればできるでしょう。

一方で、後者の、「子どもがやりたいこと、なぜそれをやりたいのか」を考えるには、

5分じゃできないし、5分で出てくるものでもない、5倍だと25分だけど、

やっぱり足りないなーと思います。

 

「今何をやるべきか、またそれはなぜか」が、頭の中にあるという点では、

前者も後者も同じなんですが、同じところへ持っていくにも、

必要な時間が違います。当然、実際に動き出した時の質も違う。

 

何よりもこの場合は、先生と一対一の時間が大事。

だから、たぶん先生の時間って、アクティブラーニングしようと思ったら、

今までの25倍(適当)くらい必要になってくるんじゃないかなー。

主体性を一人で30ー40人分育もうってなるわけだから。笑

 

そう。

トップの時間計算がミスってるんです。

 

ただ、これには、「トップと、我々(地域住民)との感覚差」と、

「学校と保護者の誤解」が、

あるから「ミスっている」ことになっていると思っています。

教育基本法

  • 十三条 学校、家庭及び地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるものとする。

 

学習指導要領の前提に横たわっている、

教育基本法

その第13条。

トップは、こう思っているわけです。

 

でも、我々は、地域住民として役割と責任なんか自覚していません。

役割もしりませんし、そもそもそれって誰が決めるんじゃい、というレベルです。

 

そして、学校と保護者。

学校は、学習指導要領の全責任を負わないといけないと誤解していますし、

保護者もそれに追い打ちをかけるように、学校に責任があると思い込んでいます。

 

 そんな訳だから、

理想と現実は遠いんですね。

本来、三者でやることを、1.5者くらいでやっているかんじなので。

 

疲れてきたので結論ですが、

 

これから、子どもたちのために、

地域は、そこに住まう子どもたちに対して、教育的立場にあることを自覚する。

(というか昔っからある、地域の子供は、面倒を見てあげる対象という感覚を呼び戻す)

学校は、負いすぎている責任を手放す。

保護者は、うーん、特に何もしなくていいかな。でも最低限、地域と学校は、敵ではなくて協力者であるという認識を持っておく。

 

っていうことを同時に進めることが必要。

 

津屋崎に関しては、

学校が手放してくれたら、

いつでも動ける準備はあります。

 

何よりも、

優先的に先生の時間を作るために、

やれることをやっていきたいですよね。

 

基本的に、先生が追加でやらないといけなくなるようなダメ出しは、

NGだと思います。

だから、僕は、積極的に、

「それは学校がやることじゃないでしょうが!」

といっていこうと思います。笑

 

This is nobuki speaking.

怖さ

事実というのは多面的である。

 

そこに転がっている石ころを拾い上げた時、

「おー!地球の一部を持ち上げた!」というのも事実であるし、

 

「なんだ何の変哲も無い鉱物か」というのも事実である。

 

前者が、Goodであり、後者がBadであるかのように、

振る舞ってしまうことがあるし、

私の携わる教育では、

前者のみしか教えていないのでは無いか、という怖さがある。

 

前者と後者、両方で捉えられて、

思考できることが重要なのである。

 

石を拾い上げて、

「なんだ輝緑凝灰岩製太型蛤刃石斧の未製品か」と言ったら、

きっと彼/彼女とは気が合う。

 

This is Nobuki speaking.

教育に関する二つの原理について

教育において、

明確に意識しておかなくてはならない二つの原理がある。

 

と、僕は思っている。「僕は」思っている。

賛同を得たいわけではない。

 

それは、

西洋哲学原理と

東洋哲学原理の二つである。

 

西洋哲学原理とは、自己の外に問いを向けそれを弁証法によって解き明かして行く哲学過程であり、科学と呼ばれるものの根本原理である。

 

この原理は、自己の外側をうまくコントロールする、支配することに長けた原理である。

20世紀後半、レヴィ=ストロース構造主義を組み立てる中で、

文明の発展は、西洋文明へ向かう一つの道筋だけではなく、

いろんな発展があり、それぞれが認められるべきものであると説くまで、

西洋哲学原理は絶対的なものだった。

なので、いろんなものが多様性を欠き、

絶対的な何かに向かおうとする「癖」が、

世界にはある.

レヴィ=ストロースの功績が、文化人類学の枠に入ってしまったことは本当に残念なことだ。

 

東洋哲学原理は、自己の内面に問いを向ける哲学過程である。

これは、自分の中にあるものを深く捉えることに長けた原理である。

そのため、短期的に効果を計ることは難しく、疎かにされがちである。

「梵我一如」あたりから、儒教の手前くらいのニュアンスが強いだろうか。

儒教あたりから価値観の押し付けが強くて興ざめである。

 

学校教育では、明確に前者に偏りがある。

社会で生きるという言葉を、経済活動への適応と捉えた場合にのみ、

この偏りは間違いではない。

 

しかし、社会で生きることは、個人にとって手段である。

ましてや、経済活動への適応は、手段の一部分である。

 

そのため、その手段の使い方を考える術を教えないといけないのだ。

 

そう、それが、東洋哲学原理による教育である。

それは主にベーシックな問いによって行われる。

「それは、なぜ?」「それをなんでgood/badと思うの?」

「なぜ?」は複数回繰り返すこともある。

 

これによって、

自分の考えや意見が、抽象的になっていくのと同時に、具体的になっていく。

 

この過程があって初めて、

「判断」による「選択」ができるようになり、

すべてに「意志」が宿るのである。

 

そして、この過程は、もう学校では手に負えないことが明確だ。

担えるものが担うしかない。

 

※事象の構造的理解と分割、層序の把握は、できないといけない。

 ※西洋哲学原理も必要。

※西洋哲学と東洋哲学を教えなさいという意味ではない。笑

 

This is Nobuki speaking.

 

社会は急速に変化しているのか

結論から言うと、社会はそこまで変化していない。

 

変化していると言いたい人が、変化していると言っているだけで、

コミュニケーションの簡略化と、身体機能の外部化を続けると言う点では、

なんら変化していない。

 

つまり、構造は変わらないのである。

 

変化していると言っている人のことを信用して、

ただの変容を変化と捉え、対応するから、

変容が繰り返されて、水面を叩くような薄い文化が増えているのだと思う。

 

でも、それが結局人類なのだと思う。

 

新年のぼやき。

次の段階へ

僕が運営している学生企画実行部。

 

日々、彼らが考え、いろんなことを実行しています。

 

僕の主な役割は、

話を進める上での手法を教えることだったり、

姿勢を伝えることだったり、します。

 

なので、主に、僕の作業は、

今目の前にあることの、

横の広がりと、

深さを、

拡張してあげる事なのかなと思っています。

 

それで、僕が先回りして教えてあげることは、

ほぼ教え切ったのかなというのが、

ここ数ヶ月の状況です。

 

ここから先は、いわゆる、

「求めよ、さらば与えられん」

というステージになって来ます。

 

何ができないから、これが欲しい、どうすればいい??というステージですね。

僕はそれに対して、持っているものは与えるし、持っていないものは持っている人から貰ってきて与えることを始めるのだと思います。

 

 

 

ですが、その前に、

最低限の姿勢というのは、

それぞれの子たちには持っておいてもらわないといけません。

 

なぜなら、私たちの部活は、

実際に社会に関わっていく活動だからです。

 

お遊びじゃないし、

学校の中にいるようにビニールハウスで守られている訳でもない。

 

実際に、この部活が、

やるかやらないかで、

地域がどうあるか変わってくるのです。

 

そう、そんな力を持っているから、

つまり、

「覚悟」がいるのです。

 

やる気があるからやる、とか、

やる気がないからやらないではなく、

一度やると言ったからには、

頑張って努力してやりきる。

それが必要になって来ます。

 

じゃないと、協力してくれる人、参加してくれる人に失礼になりますからね。

 

年明けは、ここからスタートするのだろうと思います。

 

一方で、

 

まだ、彼らの中には、

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やる気があるからやる、とか、

やる気がないからやらないではなく、

一度やると言ったからには、

頑張って努力してやりきる。

ーーーーーーーーーーーーー

という経験はもちろん、感覚を持ったこともない子もいます。

 

彼にとっては、

きっとこれは苦痛になってくるのだろうと思います。

 

ですが、今まで十分に手を差し伸べて来ました。

最近それが甘えとなって出ているような気もしています。

 

駒を進め、

彼の選択を待とうと思います。

どんな選択でも、善でも悪でもない。

彼の向かうもの次第。

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最近の悩み

仕事柄、地域の教育関係の組織に属することが多いんですね。

 

それで、そういう組織って、

悲しいことにやりたい人が集まってないんですよね。

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お願いされたから仕方なくやっている人

その役をやったら何か他に免除されるからやっている人

当番が回ってきたからやっている人

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が大半を占めます。

知った時はショックではありましたよね。

 

で、やりたくてやっている人が、ファシリテーションをする人だったりするので、

やりたくてやっている人の意見がダイレクトに俎上に上がらなかったりします。笑

 

※誤解のないように、やりたくない人ばかりがいる中で、

その役をやってくださっていることだけで素晴らしいし、

尊敬にあたいすると思っています。それに十分「頑張っている」とも思っています。

例えば、

「小学生の時、トイレ掃除って嫌な役割だったと思うんですよね。

だから、その役割をやってくれる子は、すごい!えらい!と褒められました。そう思います。」

 

「がしかし、その役割になったからといって、トイレが汚いままだったら怒られましたよね。

さらに、この話は大人の話だから、トイレを綺麗に使ってもらう工夫まで考えないといけませんよね。」

僕の話は、前者を十分に認めた上で、後者の内容を取り扱っています。

 

 

だから(やりたくてやっている人がほとんどいないから)かわかりませんけど、

その活動を「こなす」ことが、目的化していることが大半なんですね。

 

自分たちの活動の

合時代性(時代に合っているか)であったり、

合目的性(目的に合っているか)を、

客観的に見つめようとしないし、

その視座による改善意見は、

活動への否定として、

受け止められるんですよね。

 

 

それで、

たぶん問題なのは、

そのような組織が進歩していくスピードと、

時代の変化のスピードが、全然合っていないこと。

 

もちろん任意団体で個人の意思による組織であれば、

時代の変化なんて気にしなくていいんですが、

そうではない場合(地域全体からお金をもらっているとか、税金を使っているとか)は、気にしないといけないと思うんですね。

 

これから社会で何を求められるのか、学校教育はどのように変化していくのか、

その中で自分たちが大切にしたいと思えるものはなんなのか。

考えていかないといけないと思うんですね。

 

 

さて、どうしたものか。。。