津屋崎・毎日の大切なこと

津屋崎で日々暮らすなかで、耳にし、目にし、口にする、いろんなモノゴトを、自分の軸を持って綴ります。

暇つぶし

中学校の体育祭終わりに暇があったので、潰してみた。

その結果を披露しようと思う。

名言について。

中学生や高校生の頃、やたらと使いたい時期が来る名言。

座右の銘みたいにしちゃったり。青い時代の記憶である。

いろんな名言があるものの、

そのほとんどは、

「え、それってその人が言ってるから強く印象に残ってるだけだよね?」とか思ったりする。

例えば、

「boys be ambitious!」少年よ大志をいだけ

これは、クラークさんが言ったから名言と言われているのであって、

例えば、居酒屋の飲んだくれが同じことを言ったとしても、

名言にはなり得なかったと思う。

酔っ払い「ボーイズびーあんびしゃすー」

若者「はいはい、ビールこぼしてシャツが、あーびしゃびしゃ、やねー」である。

だから、ここでは、名言とは、誰がいっても

ある程度「ほうほう」と頷けるものを名言としたい。

そこで、名言をいろいろ見てみたが、概ね、3類型あるように思われる。

一つずつみていこう。

1、単純型

「人間だもの」に代表されるのがそれだ。

「幸福は人生の意味および目標、人間存在の究極の目的であり狙いである。」アリストテレス

そうだよね。と思える類だ。

一つ作ってみる。

「地球はね、回ってるんだよ。」

もう一つ作ってみる。

「ににんが、し」

まあ、ぽいっちゃぽいけど、

この類型は、誰が言ったか、が大事だ。

その人の背景とか、経験がモノを言う感じ。

到底我々(だれやねん)に使える代物ではない。

だから除外。

2、教訓型

「自分自身を信じてみるだけでいい。きっと生きる道が見えて来る。」ゲーテ

「夢中で日を過ごしておれば、いつかわかる時がくる」坂本龍馬

「人生は道路のようなものだ。一番の近道は、たいてい一番悪い道だ。」ベーコン

何か経験的に言っているのだろうなというのが伝わってくる。

一つ作ってみる。

「頂上というのはね、遠くから見ると、なんとなく見えるんだけど、近づいて山に入ると見えなくなる。でもね、まっすぐ進めば、ちゃんと最後には見えるもんなんだよ。」

道系は、使い勝手がいい。

もう一つ作ってみる。

「ににんが、し。でもね、明日も、し、になるかは、明日にならないとわからないもんだよ。」

うん。ぼんやりしていて、いろんな解釈ができて、名言っぽい。

ただ、この類型も、言った人の背景とか経験、あるいは成功/失敗がモノを言う。

だから、誰がいうかが大事だ。はい、除外。

3、抽象度の違う言葉を並べる

「人生に失敗がないと、人生に失敗する。」斎藤茂太

前者は、人生の具体的な部分で、後者は人生の全体的なことを言っている。

ほうほう、と思える。しかもこの斎藤さん誰か知らんけど、ほうほうと思える。

これだ。

抽象度の違う言葉を並べれば、

誰でも名言をインスタントに作られるのだ。

では、さっそく作って見る。

「人生が難しいのはね、

自分が世界の中心ではないにも関わらず、

自分を中心に世界が動いちゃうことがあるからだよ。」

おー、ぽい。あー、確かに。である。

もう一つ。

ににんが、し。

そう決めた時に、全てが伝わるようになり、全てが誤解となった。

2、の途中で飽きてきた感が否めないが、

最後のににんが、し、に至っては、特に考えずに書いたにも関わらず、

なんか誰かが勝手にいいように解釈して、名言にしてくれそうだ。

これで、

一億総名言時代が訪れるのも近いのではなかろうか。

そんな私は、

ビールをこぼしてシャツがビシャビシャなう。である。(おまえかい!)

 

地域における教育的役割

学校は、

教科学力が高く、協調生の高い人材の育成を行うことが良しとされる。

いわゆる社会的に優秀な人材の育成だ。

必ずしもそうある必要はないのだが、受験というハードルがそれを助長しているように見える。

違う!と言いたくなる方もいるかもしれないが、「実質」という表現をすれば、異論はないだろう。

それはそれで必要。 

 

一方で、地域は、

それを手放すことが許される。

 

現に、学生企画実行部の活動では、

「優秀な人材の育成をしたい!」という思いは一切ない。

 

彼らがやりたいことを、

表出させ形にすることを手助けしているだけだ。

こちらが用意した何かへ、

引っ張りあげるようなことは行なっていない。

 

たまに、

企画部の部員たちの感性がすごいね。

素晴らしい教育をしているね。

と言われることがある。

 

そう言っていただけて、

嬉しいことに変わりはないが、

それは、明確に私の成果ではない。

 

彼らは、そもそも素晴らしい感性を持っているのだ。

そして、そもそも素晴らしい感性をもっていない子供に、

僕はまだ出会ったことがない。

 

 

おととい体験に来た中学生も、

自閉症のことを書いてある本を読んで、僕は自閉症の人のための企画をしたいんだ!」

「僕は、歴史が好きで一つ一つの意味とか物語が知れることがとても楽しいんだ!」

「私の好きなことは、夜空の星を眺めることです。明日も頑張れる気がするから」

彼らはみんな1年生だ。

 

この時点で十分に素晴らしい。二つ三つ丁寧に質問すれば、さらに深い答えが返ってくるだろう。

 

学校では、いわゆる優秀な人材を育てることで時間がいっぱいかもしれないが、

地域では、それを手放せるので、彼らをしっかりと見つめることができる。

 

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それが、

地域の教育的役割の

「フェイズ1」なんだと思う。

これはかなり精神的というか、気持ちの問題なのだと思う。

彼ら一人一人が、気にかけてあげる存在であると想う気持ちなのだと思う。

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「フェイズ2」は、その感性を表出させる機会をつくることだ。

ここから実質的に時間を使うことになる。

聞いてあげて、質問してあげて、幅や深さを広げたりしてあげる。

これで彼らは、居場所を感じ始めるだろう。

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フェイズ3は、地域が、表出した感性を形にできる環境になることだと思う。

 

企画部の部員たちは、

地域の自治会長や子ども会の会長に、彼らだけで協力のお願いに行っている。

 

自治会長の家がわからないときは、郷づくり協議会の事務局長に直接聞きに行ったりもするし、

チラシを置いてもらうために、様々な施設へ自分たちでお願いに行っている。

 

また、活動のためのスポンサーを募ったり、

イベント出店で資金を稼いだり、

イベント参加費などで活動資金を調達している。

 

最近では、彼らの活動に賛同してくれている自治会長さんは、

区の費用を使って、彼らのイベントに参加してくれていたりもする。

 

この数年で、部員たちのやりたいことに、

地域が協力してくれる空気感というのが、かなりできて来た。

まだまだ自治会長や郷づくりレベルだが、

部員たちはのびのびと、

そして図々しくお願いに行ける環境ができて来ている。

 

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そう!彼らの褒めるべきところは、ここである!!

ここである!ここだ!!!

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少なく一部の中学生ではあるものの、

若干ダッシュぎみで、

自分たちで考えたことを、

お遊びではなく、

地域に協力してもらいながら、

形にして、

しかも、地域社会に実際に影響を与える、

その前例を作ったのだ。

(彼らの活動にすでに延300人以上の方が参加してくれている。)

 

そして、さらに、中学生は思った以上にできる!という前例を作ったのだ。

 

さらに何よりも、彼らのやりたいことに地域が協力するという前例を作ったのだ。

 

ここにどれだけの可能性があるか。

理解できるだろうか。感じ取れるだろうか。

 

まだまだ学校や保護者の常識になるまでは、

時間がかかるだろうが、

 

まずは、フェイズ1まで持っていきたい。

でも、これは、1にして全なり。ではある。

 

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↑地域の見守り効果を向上させるために行った、

小学生と高齢者の交流イベントの感想。92歳のおばあちゃん。

地域をより良くするということが存在するとしたら、それは心の話だ。

誰かの心を豊かにできたなら、それは地域をより良くしたということと、同義だろう。

こんな感想をもらえる仕事は、大人でも簡単にできるもんじゃない。

This is nobuki speaking.

町に住まう者としての興味関心。

興味関心がないもの

・経済的発展

・近代化

・移住者の増加

・観光客の増加

・起業促進

・地方創生という言葉

(興味関心がないだけで、無駄と思っているわけじゃない。

やりたい人がやればいいと思う。)

 

興味関心があるもの

・地域が行う教育

・当たり前にあるものを改めて手に取る

・女性(笑)

 

以上

山笠に関する見えるものと見えないもの、そして政(まつりごと)

津屋崎には、300年の歴史をもつ津屋崎祇園山笠がある。

 

この祇園山笠は、無病息災を祈るお祭りとして実施されている。

祭神は、素戔嗚尊スサノオノミコト)。

300年前にお櫛田さまから勧請していただいた神様だ。

 

このお祭りには、小さい頃から参加していて、

高校、大学、大学院(ちょっとだけ)と津屋崎を離れていたものの、

帰ってきてからは引き続き関わらせていただいている。

 

私は、この山笠を、

「伝統文化」であり、

「伝統政治」だと思っている。

 

見える部分だけを切り取ると、

そこにあるのは、

 

とても重いものを一緒に作り、喧嘩をしながら町を走り、酒を飲む、

そして、その酒の準備は「ごりょんさん」が行なっているという部分。

 

見えるところだけみると、

このご時世、意義を感じられにくい「行事」であると思う。

 

しかし、

見えない部分というのがあって、

その機能というのは絶大なものだと感じている。

 

・年のうち1ヶ月間、近隣の方と深く関わる機会が生まれる。またその繋がりが大切にされる

・「考えが違って殴り合うかもしれんけど、それで嫌いになったりするわけやない。やから遠慮せず意見を出し合おう」という宣言がなされる。

・80代くらいの大先輩から小学生まで「活気」づく。見物にきた人たちも活気づく

・最近は、移住者が町に溶け込むキッカケともなっている。

 

とはいえ、「なんでやるんですか??」と聞くと、

おそらくほとんどの人が「楽しみやけんよ。」と答えるだろうと思われる。

 

だから、山笠は300年続き、成功しているのだろう。

 

「みんなの楽しみ」であると同時に、

地域のつながりを強化し、幅広い世代の住民を活気づかせ、

移り住んできた縁もゆかりもない人たちを、地域の者とさせている。

 

無病息災を祈る、と言いつつ、

そもそも、それ自体が、地域が元気になり、住民が心身ともに健やかに歩む機会なのだ。

 

こんな仕組み誰が考えたんだ!天才か!と思う。

 

そして、これが、祭り事であり、政(まつりごと)であり、

政治なのだと思う。本当は。

 

伝統文化だから続けたい!ではないし、

楽しみだから続けたい!(楽しみではある)ではないのだ。

たぶんそれだけだと、

もうどこかで途絶えていたと思う。

 

きっと必要だから、必然的に続いてきたのだ。

 

神様の後ろ側に隠した本当の役割。

 

聖一国師さんが、最初からデザインしていたのかはわからないけど、

同じ質のものを新たに作れと言われても、作れる自信はないし、

知っている限りどこを見渡してもそれができそうな人はいない。

 

でも、それができる人でありたいと、心から思う。

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This is nobuki speaking.

先生には時間が必要

学習指導要領が切り替わるということで、

アクティブラーニングという言葉が行き交うようになりました。

 

存在として確立する前に、

もうすでにビジネス用語になっているのは気にくわないです。笑

 

僕の愚痴はいいとして、

アクティブラーニングって、いわゆる主体性を育みましょうよ、という教育を指します。

 

自分で考えて、自分で行動して、自分で形にしたりする、

そういうことを、やっていきましょうよ。そんな感じ。

 

これは、今までの「答えを教える教育」だけじゃダメだよねって文脈の中で、

生まれて来ました。

本当はゆとり教育がやりたかったことであって、言葉変わってるだけだよね。と僕は思っています。

 

実は、僕らが思っていること、

「ただ暗記させたって、大事なのはなぜそうなったのかだよね」とか、

「生きる力が大事だよね」とか、

「もっと子どもたちは自由であるべきだ」とか、

そんなことは、すでに考えられていて、それを実現するための大きな力というのは、

働いて来てるんですね。

 

じゃあ、なんで、うまく行っていないのか?

なんで、学校の現場は、その理想とは程遠いのか??

 

それは、単純に、トップの時間計算ミスだと思っています。

(あとは「学習塾」の害悪というのも確実にあるけど一旦それはエポケー)

 

単純なところだけ話すと、

 

先生「今日は〇〇をします。なぜなら、〇〇という理由だからです」

という今までの一般的な過程に対して、

子ども「〇〇をしたいです!なぜなら〇〇だからです!」

という主体的な立場に持っていくためには、

待つ時間(子どもたちが考えて、大人が決めない時間)が、

今までの5倍(適当、ただ5倍で足りるか不安)は必要になって来ます。

 

上記の前者、先生による説明は、5分もあればできるでしょう。

一方で、後者の、「子どもがやりたいこと、なぜそれをやりたいのか」を考えるには、

5分じゃできないし、5分で出てくるものでもない、5倍だと25分だけど、

やっぱり足りないなーと思います。

 

「今何をやるべきか、またそれはなぜか」が、頭の中にあるという点では、

前者も後者も同じなんですが、同じところへ持っていくにも、

必要な時間が違います。当然、実際に動き出した時の質も違う。

 

何よりもこの場合は、先生と一対一の時間が大事。

だから、たぶん先生の時間って、アクティブラーニングしようと思ったら、

今までの25倍(適当)くらい必要になってくるんじゃないかなー。

主体性を一人で30ー40人分育もうってなるわけだから。笑

 

そう。

トップの時間計算がミスってるんです。

 

ただ、これには、「トップと、我々(地域住民)との感覚差」と、

「学校と保護者の誤解」が、

あるから「ミスっている」ことになっていると思っています。

教育基本法

  • 十三条 学校、家庭及び地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるものとする。

 

学習指導要領の前提に横たわっている、

教育基本法

その第13条。

トップは、こう思っているわけです。

 

でも、我々は、地域住民として役割と責任なんか自覚していません。

役割もしりませんし、そもそもそれって誰が決めるんじゃい、というレベルです。

 

そして、学校と保護者。

学校は、学習指導要領の全責任を負わないといけないと誤解していますし、

保護者もそれに追い打ちをかけるように、学校に責任があると思い込んでいます。

 

 そんな訳だから、

理想と現実は遠いんですね。

本来、三者でやることを、1.5者くらいでやっているかんじなので。

 

疲れてきたので結論ですが、

 

これから、子どもたちのために、

地域は、そこに住まう子どもたちに対して、教育的立場にあることを自覚する。

(というか昔っからある、地域の子供は、面倒を見てあげる対象という感覚を呼び戻す)

学校は、負いすぎている責任を手放す。

保護者は、うーん、特に何もしなくていいかな。でも最低限、地域と学校は、敵ではなくて協力者であるという認識を持っておく。

 

っていうことを同時に進めることが必要。

 

津屋崎に関しては、

学校が手放してくれたら、

いつでも動ける準備はあります。

 

何よりも、

優先的に先生の時間を作るために、

やれることをやっていきたいですよね。

 

基本的に、先生が追加でやらないといけなくなるようなダメ出しは、

NGだと思います。

だから、僕は、積極的に、

「それは学校がやることじゃないでしょうが!」

といっていこうと思います。笑

 

This is nobuki speaking.

怖さ

事実というのは多面的である。

 

そこに転がっている石ころを拾い上げた時、

「おー!地球の一部を持ち上げた!」というのも事実であるし、

 

「なんだ何の変哲も無い鉱物か」というのも事実である。

 

前者が、Goodであり、後者がBadであるかのように、

振る舞ってしまうことがあるし、

私の携わる教育では、

前者のみしか教えていないのでは無いか、という怖さがある。

 

前者と後者、両方で捉えられて、

思考できることが重要なのである。

 

石を拾い上げて、

「なんだ輝緑凝灰岩製太型蛤刃石斧の未製品か」と言ったら、

きっと彼/彼女とは気が合う。

 

This is Nobuki speaking.

教育に関する二つの原理について

教育において、

明確に意識しておかなくてはならない二つの原理がある。

 

と、僕は思っている。「僕は」思っている。

賛同を得たいわけではない。

 

それは、

西洋哲学原理と

東洋哲学原理の二つである。

 

西洋哲学原理とは、自己の外に問いを向けそれを弁証法によって解き明かして行く哲学過程であり、科学と呼ばれるものの根本原理である。

 

この原理は、自己の外側をうまくコントロールする、支配することに長けた原理である。

20世紀後半、レヴィ=ストロース構造主義を組み立てる中で、

文明の発展は、西洋文明へ向かう一つの道筋だけではなく、

いろんな発展があり、それぞれが認められるべきものであると説くまで、

西洋哲学原理は絶対的なものだった。

なので、いろんなものが多様性を欠き、

絶対的な何かに向かおうとする「癖」が、

世界にはある.

レヴィ=ストロースの功績が、文化人類学の枠に入ってしまったことは本当に残念なことだ。

 

東洋哲学原理は、自己の内面に問いを向ける哲学過程である。

これは、自分の中にあるものを深く捉えることに長けた原理である。

そのため、短期的に効果を計ることは難しく、疎かにされがちである。

「梵我一如」あたりから、儒教の手前くらいのニュアンスが強いだろうか。

儒教あたりから価値観の押し付けが強くて興ざめである。

 

学校教育では、明確に前者に偏りがある。

社会で生きるという言葉を、経済活動への適応と捉えた場合にのみ、

この偏りは間違いではない。

 

しかし、社会で生きることは、個人にとって手段である。

ましてや、経済活動への適応は、手段の一部分である。

 

そのため、その手段の使い方を考える術を教えないといけないのだ。

 

そう、それが、東洋哲学原理による教育である。

それは主にベーシックな問いによって行われる。

「それは、なぜ?」「それをなんでgood/badと思うの?」

「なぜ?」は複数回繰り返すこともある。

 

これによって、

自分の考えや意見が、抽象的になっていくのと同時に、具体的になっていく。

 

この過程があって初めて、

「判断」による「選択」ができるようになり、

すべてに「意志」が宿るのである。

 

そして、この過程は、もう学校では手に負えないことが明確だ。

担えるものが担うしかない。

 

※事象の構造的理解と分割、層序の把握は、できないといけない。

 ※西洋哲学原理も必要。

※西洋哲学と東洋哲学を教えなさいという意味ではない。笑

 

This is Nobuki speaking.