津屋崎・毎日の大切なこと

津屋崎で日々暮らすなかで、耳にし、目にし、口にする、いろんなモノゴトを、自分の軸を持って綴ります。

「遅れている」ということについて

最近、ニコンが、

「in pursuit of light」というキャッチコピーで、

新製品のPRをしている。

 

ちょうど最近、頭の中に学術界への復帰が頭を巡っていたので、

思い出した本があった。

 

ビンフォードが書いた「in pursuit of the past」

たぶんプロセス考古学を知ろうとした時に、最初に読むであろう本だ。

 

1970年代、学術界の多くの分野でパラダイムシフトが起こっていたと思うが、

考古学も例外ではなく、大きなシフトが起きていた。

この本は、そのシフトのスタート地点である。

 

しかし、日本では、このシフトをまともに議論し始めたのは、

2000年代に入ってからである。

 

世界的に30年遅れているのだ。

 

当時は、遅れているという捉え方一辺倒だったと思うし、

実際に学術的に遅れている面は多い。

そもそも英語を読めない研究者が多いし、

それにともなってアウトプットも国内にとどまっている。

 

ただ、今は、遅れていると言われている30年で、

他に何を得られたのだろうかというところに目を向けることができる。

 

建設的な議論ができるだろうと思う。

 

ただ、学術界に戻ったとしても、土器を丁寧に精査するような類のバイタリティーはない。笑

勝浦はすごい。

勝浦はすごいすごいと思っていましたが、

ここまですごいのか、と感動してしまいました。

 

今日は、津屋崎中学校区の地域学校協働活動推進員(地域コーディネーター)の合同会議でした。

 

津屋崎中学校は今年で2年目で、まだ始まったばかりですが、

4、5年目の勝浦がすごい。

 

コンパクトというアドバンテージがあるのは間違いなけれど、

それは、スピードという点でのアドバンテージなので、

その質へ到達したことに、そのコンパクトさは無関係だと思います。

 

コンパクトであればあるほど、簡単に間違った方向へ行ってしまうこともありますからね。

 

先生の負担を減らしながら、地域が主体的に教育の一端を担う、そんな体制ができていました。

いろんな課題を話されていたけれど、ほぼ詰めの段階と言っていいのではないでしょうか。

 

もちろん、次のコーディネーターは誰がやるとか、今の校長がいなくなったらとか、根本的な高齢化などの問題は、ありますが、とにかくすごい。

 

目指すべき形だと思いました。

私たちのものである。

どこよりも秀でているとか、どこもやってないとか、

どこかが成功しているからとか、

 

そんなことは、どうでもいい。

 

大事なことは、

それらが、「わたしたちのものである」と思われているかどうかだ。

 

自治会も、

地域の学校も、

子供会も、

消防団も、

お祭りも、

 

時代の移ろいの中で、

「私たちのものである」と思われながら、運営されれば、

質は関係ないのだ。ただそれだけで、関わる人の幸せは担保される。

 

でも、それが難しい。

上の世代が早くそれに気づき、

しなやかに対応していかないと、

難しい。

私たちは悩む。

彼らにどのように育って欲しいのか。

それを達成するために何をすればいいのか。

 

私たちは悩む。

 

なぜ、放っておくのではいけないのか。

 

生きていけないから?

 

なぜ生きていけないのか。

 

放っておいて、あるがままに成長して、

なぜ生きていけないのか。

 

私たちは悩む。

 

どこへ向かわせようとしているのか。

どこへ向かっているかもわからないまま、

どこかへ向かわせるために。

 

私たちは悩む。

今年も、山笠が終わりました。

今年の津屋崎祇園山笠がおわった。
 
土曜日は、裸参り。
日曜日は、追い山。
 
自分との戦い。
新町、北との戦い。
 
僕は土曜日のお昼に、
辛めのインドカレーを食べたおかげで、
腹痛との戦いだった。
 
そう、ここにはそれぞれの戦いがある。
 
ふざけたことだけを言っていると、
怒られるかもしれないので、
事務局長としてバランスを取ろうと思う。
市に提出している今年の実施計画書は、
大きく未来へと舵を切っている。
西野正信保存会会長の意志だ。
若輩ながらその作成に携わらせていただけていることは、
僕の誇りの一つだ。
その舵切りには、保存から、振興へという思いと、
それと同じくらい「地域」の取り戻しというのがあると思っている。
今まで以上に、子供たちとの関わり、地域住民との関わりが、
大事にされているからだ。うん。
徹頭徹尾、山笠という所作は、未来のためである。
大きくも小さくも未来のためである。
この我々の所作は、子供達に何を残せるだろうか。
おじさんたちの楽しみであると同時に、
彼らの未来を照らす所作を残せるだろうか。
この悩むほどでもないと同時に、
悩まないといけない悩み事を抱え、
5年後に来る復活50周年、
そしてその先の開始400年に向けて、
できることをやっていこうと思う。

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「大人である」ということについて

生物として、

他者から得ることでしか、

自己再生産できないという定言的な前提の中で、

それとは逆の方向の行為を、

当たり前のごとく行うのが、

大人なのだと思う。

 

誰かから何かを得るのではなく、

贈与的な主体として、

寛容で、寛大で。

 

大人であるということは、とても力がいるし、

疲れることなのだと思う。

 

そして、大人になるということは、

決してなくって、

大人であろうとする力が、だんだんと付いてくるのだと思う。

 

大人力というのは、持久走みたいなもので、

頑張っていれば、持久力はつく。

 

でも、結局、疲れてくるのである。

 

 

疲れてくると、その回復行動として、

子供のように我儘に振る舞うという、

生物本来の行動が、表面化するのだと思う。

 

昔は、それが、家族や友との間で行われていたのだと思うけど、

今は、ネット上で行われている。

 

だから、昨今は、ネットに関わるものの多くが、

社会的に幼稚なのである。

 

ネット上では基本的に自由なので、そうなってしまうのは仕方がない。

そもそも、大人であるということ自体にパワーがいることなので、

仕事や家族を離れた、ネット上でそれを求めるのは、無理があるのかもしれない。

 

ただ、面倒臭いのが、

ネット上に社会が持ち込まれてしまったところにある。

 

ネット上での幼稚さが、

実社会に影響を与えているのだ。

 

ネット上の無関心を推し進めないと、

表現の自由も、存在の自由も、

どんどん、どんどん、小さくなってしまう。