津屋崎中学校 学習サポートのお願い!
【津屋崎中学校 中間考査 学習サポートのお願い!】
津屋崎中学校は、来週9月27日(木)28日(金)が中間考査となっています。
夏休み明けて早いですよね。こんなもんでしたっけ。
今回もまた地域の方に学習サポートのお願いが来ておりますので、
お時間許す方は、ご協力のほどを宜しくお願い致します。
前回は、4名の方にご協力いただきました。
あと5名ほどいてくださると、助かる状況です。
教科は、すべて数学となっています!
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□ 日程
① 9月25日(火)14時から 1年生 文字式、方程式
② 9月26日(水)14時から 2年生 連立方程式、1次関数
15時から 3年生 平方根、2次方程式
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□ 学習サポートの流れ
①地域の方一人に対して、生徒2〜3名の班が作られます。
②問題用紙が配られ、生徒たちが解いていきます。
→この時、地域の方には解答用紙も配られます。
③答え合わせをしてあげます
出される問題は、各単元の基礎的な問題です!
複雑な応用問題はありませんのでご安心を!
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□ 「学習サポート」サポートもします!
時間もあっていけるだろうけど、
内容を思い出す機会が欲しいという方に朗報です!
僕が、各単元の簡単なレクチャーをします。
9月22日(土)14時〜 たぶん1時間程度
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参加できそうな方、今回は無理だけど次回以降も声かけてーという方、
メッセージいただけたらと思います!
FBの場合は、そのままメッセンジャーでどうぞ。
メールが良い方は、
nobuki.corner@gmail.com
まで、ご連絡くださーい!
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宜しくお願いしまーす!
ハイキングと障害物走
ここ2年ほどで、自分が作ったもの以外の組織に属するということが増えてきた。
概ねそれらのすべてで、
「え、なんでこんなに進むの遅いの」(去年の状況から前に進んでいない)
「その課題2ヶ月あれば解決できるじゃん」(それに数年かけようとしている)
ということが起きている。
そう思った時に、すべてを言うわけじゃない。
大方、我慢をする。たぶん9割は我慢している。
ただ、言っておかないと後悔するかもね、と思った時は、
言うようにしている。
正直、感覚が合ってないと感じる。
しかし、その捉え方自体が、本当は間違っているのではないか、と思えてきた。
そしてやっと最近、その感覚差がなんなのかということに気がついた。
概ね、地域の諸組織は、「ハイキング」をしているのだ。
それに対して私は、「障害物走」をしている。
ハイキングとは、語源的に「ぎこちなくゆっくり歩く」と言う意味だそうだ。
ながーく歩くために、進み続けるために。効率的でなく、ぎこちなさも許容しているところも大事だ。そして、そもそもゴールもないに等しい。
一方、私は、障害物を効率よく乗り越え、いかに早くゴールに到達するか、と言うことをやっている。
もはや、土台が違ったのだ。
なので、私が「あの障害物(課題)を飛び越えましょう!」という、改善案を提案したとしても、
彼らにとっては、それは障害物ではないのだ。
ゆっくり歩きながら回り道する対象なのだ。
私が、「このスピードで走りましょう!」と言ったとしても、
彼らは、そもそも走るつもりがないのである。
これで、多少は受け入れることができそうだ。
言葉というのは返ってくる。
これは時代であって、私がおっさんになった証拠なのか?
仕事柄、というか、活動柄というか、
中学生と関わることが多い。
なので、ラインやFB、インスタグラムで、彼らの自己表現を、
目にする機会も多い。
それを見ていて思う。
自己表現に、なぜこうも自己がないのか??と。
私が中学生の頃には、ライン等の表現手段がなかったので、
自己との比較はできないのだが、中学生という精神レベルは、
このような自己表現のレベルなのか。
目にするレベルよりも本来は高い気がするのだが。
プロフ写真は、何かしらのアイドル、流行りのアプリを使った加工写真、誰かが作った面白い(と思っている)画像。
言語表現は、先輩や後輩、同級生を意識した「友情の確認作業」的表現が多い。
私たちの時代とは異なり、
自由な自己表現をできる手段は圧倒的に多いはずだが、
容易に類型化できるほどにバリエーションがない。
斬新で他にないものが、健全な自己表現とは思わないが、
無意識に他に思考が依存していることの現れだとしたら、
まずいのではないか。
とはいえ、ただそういう時代なのか。とも思う。
若者の何でもかんでもを問題にしたがる、おっさんの特技が発動しているのかもしれない。
先生が行きたくなる学校をつくる、という視点。
我々大人は、
子供達のために、何ができるだろうか、
何が必要だろうかと考え、行動をします。
彼らが主体性を持って、のびのびと成長していくために、
何ができるだろうかと考え、行動します。
主に、学校の外。外部として、地域として。
概ね、見ているのは子供。
時には、「子供のためである」ということを振りかざし、
誰かを、特に学校の先生を、否定したりしてしまうことも。
ですが、最近、学校と関わることが増えて来て、思うことがあるんです。
子供達に何かしてあげることを増やすよりも、
義務教育の9年間、
昼間の最も活動的な時間を、
子供たちと共にする学校の先生のために、
できることを考えた方がいいんじゃないかって。
正確には、当然子供達のためにも何かするんですが、
同じくらいの重要度で、
先生たちのためにも何かしないといけないんじゃないかって、
思うんです。
学校の先生は、多忙です。我々が思っている以上に。
毎日の授業はもちろんですが、勉強を教えるだけじゃないですからね。
決まったことを教えることと同時に、子供達の自主性、主体性も育まないといけません。
決まったことを教えるときは、「見ていて」いいですが、
主体性を育むときは、「見ない」ことが非常に大事になって来ます。
「大人が見ている時だけする」のは主体性じゃないですからね。
「見ない」でやらせて、「失敗する」「自分の力で成功する」などの経験もさせないといけません。
これは難しいことですが、さらに難しくさせていることが、
「もし何かあった時」という言葉。
主体性を育むという目的で、
「見ていない」時に、何か事故が起きたら、いくら教育のためとはいえ、
先生の責任、学校の責任とされてしまいます。
だから結局、
「見ながらにして、見ない。」
どこかの古武術の極意のような作業を、
常時しないといけないのです。
しかも、同時に30人以上の子供に対して。
我が子、1人、2人の話じゃありません。
神経をすり減らして、教材研究を十分に行う時間もありません。
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つらつらと書いていると、書くこと多すぎてめんどくさくなって来たので、
飛躍させますが、
学校の先生って、忙しいし時間がないし変な責任をたくさん負わされているんですね。
で、それって、子供たちにとって、良くないわけです。
心にゆとりがなく、何かに追われている人に教わる、日々一緒にいるって大人でもマイナスな影響受けますよね。当然、子供もそうなわけで。
自分の人生に目を輝かせ、ワクワクしている大人に育ってもらうためには、
まずは、そのような大人(ワクワクした大人)に触れることが大前提だろうと思うんですね。
そのような考えに立脚した時に、
「先生が行きたくなる学校をつくる」という視点って、
ものすごく大事になってくると思うんです。
それで、特に中学校くらいまでの市立学校の場合は、
その視点をもって行動すべきは、
我々地域の人間なのではないだろうかと思うわけです。
だって、そこの学校には、我々の地域の子供達がお世話になるわけですから。
今までって、そんな当たり前のことを、
おろそかにしてきたんじゃないの?って思うのです。
いろんな組織的な前提があるかもしれない。
社会的なしがらみがあるかもしれない。
そんなことはどうでもよくって、
学校って、
我々の地域の子供達が通う場所であって、
多大な愛情と時間を使って接してくれる大人がいる場所なんですよね。
こういうのって「先生」という仕事なんだから
当たり前でしょっていって、蓋をしていいことじゃないと思うんですよね。
先生たちが自分でやればいいじゃんっていう人もいそうですけど、
システムの中にいる限り、それは根本的に不可能だし、
そもそも、そんな時間ないですからね。
何か行動するのは難しいかもしれないけど、
学校というものの見方を変えるのは簡単だと思うんですね。
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そこにあるのは、
地域の学校であって、
通うのは我々の地域の子供達です。
そして、そこには、彼らに多大な愛情を注いでくれる大人がいます。
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そんな当たり前のことを、暮らすということの中に、
据え置けたら、ただそれだけで、いろんなことがうまく回り始めるのだと思います。