三粒の種のお話 vol2
三粒の種の持っている概念は、僕が考古学をしていた頃にさかのぼります。
学部生から、やめてしまう大学院1年生の初夏まで、僕は考古学に没頭していました。
考古学ってどんな学問なのかというと、
人類史の再構築を行う学問です。人類史なので、恐竜とか化石とかそういった類は畑違いで、発掘をして出てきた道具や柱の穴などから、当時の社会を復元していきます。
検証のできない学問で、真実を突き止めることはできませんが、
どれだけでも突き詰めることができて、不正解はあり得ない、いつまでも考えられる、
そんなところが好きでした。
僕の専門は、弥生時代の生産システム。本当は国家形成論を描きたかったけれど、その勉強をするなかで、階級社会の萌芽期である弥生時代に行き着きました。
ということでね、考古学はがっつりやってたんです。
考古学をやっていると、どの時代にどのような仕組みで経済がなりたっていたのか、どういった世界観で生活していたのか、そしてその変遷というのが、よくわかります。
そして、争いの原因と世界の広がり方、そんなことも同じようによくわかります。
大学3年生の頃、弥生時代のグローバリゼーションと、現在のグローバリゼーションの弊害というのが全く同じだということに気がつきました。
ちょうどTPPが話題に出はじめた頃だと思います。
弥生時代には、稲作と定住で、縄文時代とは相対的に安定した社会が訪れます。
日本史の教科書はさらっとそんな記載があるだけで、安定したんだーという感想を持つ程度の時代です。
ですが、実際は、社会が階層化する時代、その根底として人口の爆発的な増加と、それを維持するためのコミュニケーションが行われました。
人口が爆発的に増加すると、自分の集落だけでは、その人口を維持できなくなり、隣の地域に手を出すようになります。つまり、争いが起こり始めます。これが弥生時代にあった、地域間のコミュニケーションです。
その証拠として、武器の出土量が増え、権威の象徴として武具が使われるようになります。
その弥生時代のグローバリゼーションの仕組みと、
今、アメリカが行使するグローバリゼーションの仕組みは、全く同じ。
自分たちの幸せをキープするために、他の地域、集団の幸せを奪ってしまうという仕組み。
それが、変わらないこと、いわゆる繰り返されていること、そしてそれで起こる弊害を、今も昔も、「悪」であると認識していること、それを腑に落ちて理解した時、
それを考古学から言及していくことが、これから必要だと考えるようになりました。
また、それが、社会科学として成長していく考古学が担うべき役割だと考えるようになりました。
E.H.カーが、
「歴史とは何か」という著書の中で、
歴史学者は、なぜとおなじくらい「どこへ」というのを提出しなければならない、という内容のことを書いていました。それが、頭の中に常にあったからなのかもしれません。
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今も、歴史学という分野が担うべき分野が担われていないと思っています。
そんな思いを持って、考古学の研究を続け、卒論を書き、
僕の専門とする弥生時代の研究では、最先端の大学院に入学しました。
当初は、大学院を経て、博士課程まで進み、そこから僕の疑問を社会に対して投げかけていきたいというのが、目標でした。
ですが、大学院で勉強を始めてすぐ、強い思いを持っていながら、あと20年から30年、言及していく力が得られないことに、焦りを感じるようになりました。
自らプレイヤーになり、活動をしていくことが、一番早くて、一番自分を納得させることができるんじゃないだろうか、そう思った時に、
僕は、最も尊敬する先生に、大学をやめることを相談していました。
そして、そのまま、大学を辞めてしまいました。笑
つづく