津屋崎・毎日の大切なこと

津屋崎で日々暮らすなかで、耳にし、目にし、口にする、いろんなモノゴトを、自分の軸を持って綴ります。

人は変われるとか、変われないとか。

中学校くらいからかな?

自分の人格を意識するようになり、

その一部分がコミュニケーションを妨げていることに気がつき始めます。

 

そのコミュニケーションの阻害は、

物事のうまくいく、いかないに直結しているので、

「変わりたい」と考えるようになります。

 

そんな状態に陥った時に出会うのが、

「人は変われるんだよ」論と

「人は変われないんだよ」論です。

 

最近になって、これは二律背反(どちらかが正しい)ではない、

ということに気がつきました。

 

つまり、変われるといった時の変われる部分と、

変われないと言った時の変われない部分が、異なるということです。

 

まず、変われる部分のことから。

 

変われる部分というのは、理性の働く領域です。

つまり、何かが起きた時に一旦考えて行動できる事柄は、

変えることができます。

 

言葉遣いとか、めんどくさがりとか、丁寧さとか、

そういった類は変えられます。

意識して、ルーティンになれば、その辺は変われるんだろうと思います。

 

一方で変えられない部分というは、

人として根幹をなす部分、なんと言っていいのかわかりませんが、

生まれてから幼稚園くらいまでの間に形成される人格がそれに当たると思います。

 

仕事をしていると適材適所というのが、

人選において重要ですが、

まさにこれだと思います。

 

先を見る人、目の前のことをこなす人、言われたことだけやる人、何もやらない人

いろいろ表現があると思います。

 

夏休みの宿題を、

最初の数日で終わらせる人、

毎日こつこつやる人、

誰かに任せてしまう人、

最後の数日で焦る人、

間に合わない人、

こんな感じに表現はいくらでもあります。

 

これは能力差ではなく、人格なんです。

意識して見た目上はごまかせるかもしれませんが、

基本的に変わらない行動原理です。

だって、この部分っていうのは、自分の発想の根源なんだからね。

変える変えないの意図が働く領域じゃないんです。

 

この部分は、変えられないのに、

変えようとしてから回っている人多いですよね。

 

ここ数年で至った考え方は、

別に誰も変わる必要はないということ。

 

わざわざ変わったとしても、

だいたいの場合その変化の先は「普通」です。

その変化で得られた能力は、結局誰でも持っていて、代替可能なんです。

 

変わる努力をする前に、

自分を受け入れ、

その自分の役割を見いだすことが大事だと思います。

 

分相応を見極めましょう。これは決して「自分はこの程度だ」という意味ではありません。

 

バスケをしていた頃に、監督から言われた言葉があります。

選手が目まぐるしく動き回る試合の中で、

「コート上で何もしないということも、役割の一つだよ」って。

 (ボールを持って点をとることだけが、役割ではないということね。ぼーっと突っ立てる訳じゃなく、走ってスペースを空けるとか、開いてポジションとって攻めやすくするとかね)

 

 

役割というのは、捉われなければ無限にあるものだと思います。