津屋崎・毎日の大切なこと

津屋崎で日々暮らすなかで、耳にし、目にし、口にする、いろんなモノゴトを、自分の軸を持って綴ります。

不良は非日常が好きなわけではない。

先日、教育関係者と話していた時に、出た内容。

「若い子は非日常が好き」

 

この若い子というのは、文脈として、素行の悪い生徒のことをさしています。

 

これは捉え方として間違っています。

 

僕が中学生だった頃、自分たちはそんな自己認識はなかったんですが、

同じ学区内では一番荒れていたそうです。

 

そう言われてみると、授業を妨害する奴は普通にいたし、廊下を自転車が走っていたし、窓はよく割れていました。自転車がバイクじゃないから、そこまでひどくない感覚はありました。

今でも窓ガラスを割ったことを誇らしげに話してる奴もいます。(笑)

 

授業中に不良が窓に腰をかけ「やばい、落ちたら死ぬー」と言っていたのに対し、

苛立った僕は、「じゃあ落ちて死ねや」と言ったのを覚えています。

もちろんそのあとボコられました(笑)

それももう10年以上前です。

 

さて、彼らは何をしたくて不良なのか。

これは僕が当時から考えていたことです。

 

結論を言えば、彼らは、

「普通」のことで目立つことができなくなったから、努力することなく目立てる方法をとっている、だけなんですね。

 

小学生までは、ドッジボールが上手なだけで目立てるし、先生も少しいいことをすれば褒めてくれます。

 

ですが、中学生に上がるとそうはいきません。

勉強のレベルは上がって、テストでは順位をつけられます。

また身体能力も向上し、スポーツでも目立てなくなります。

部活を始める子も増えるので、なおさらですね。

 

つまり、

今までの方法では社会的な優位を感じることができなくなるんです。

 

勉強や部活などをひたむきに頑張り自己表現をしたり自分の役割を見出していくことを、正のベクトルしましょう。

これに沿って、より強い力をつける子が、目立つし褒められるし自己表現を思うようにできます。

 

さて、このベクトルに適応できなかった子たちは、どうやって適応者に対抗して目立とうとするのか。

そうです、簡単ですね。正のベクトルとは、まったく逆のベクトルを持てばいいのです。

 

みんなが右に進んでいる中、ちょっとでも左に進めば、簡単に目立つことができるし、擬似的な自己表現が達成されます。(なぜ擬似的かというと、正のベクトルに囚われているので、純粋な自己表現ではないんです。)

 

その知人の教育関係者は、

この一人だけ左にいくような行動をとることを、間違って「非日常が好き」と捉えているようです。

違いますね。誰だって非日常が好きです。

 

彼らは好きで非日常的行動をとっているのではなく、適応能力がない故に、そのような行動をとらざるを得ないのです。生命体としてね。

進化心理学上のセオリーです。みんなとは違うことをやって、自分の強さを見せたいんです。

 

残念ながら、人間というのは類としては、進歩しているかもしれませんが、

進化という観点から考えると当然ながらほとんどが失敗作です。

なので、どうしようもない子(脳みその作りや、幼少期の環境などが原因で)もいます。いない方がおかしい。

 

だから、良好な多様性の一要素として、不良も役割を担っているということを、教育関係者は認識した上で、

排除したり更生させようとせず、放っておくことが必要だと思います。

 

逆にどうしても不良をなくしたいのなら、

通知表の評価基準に「素行が悪く、学校運営を著しく阻害したとみなされる場合は、評価外とし、2年間にわたり改善が望まれない場合は退学処分とする」を加えていいと思います。

だって、授業中に他の子供達に迷惑をかけて、授業外でも先生の時間を奪うことになるわけですから。これは、大罪です。未来ある多くの子供達の時間を奪うわけですから。子供であろうと許されません。

大人は、その大切な時間を確固たる基準を持って守っていかなくてはなりません。

 

功利主義に従って、不良一人の幸福よりも、その他大勢(40人クラスなら、39人の)の幸福をとる方が、公教育上正しい判断なはずです。

 

中途半端に誰も傷つけずやろうとするから、間違うんです。

もっと統計的にやってかないと。

 

そうなると、公教育では、個への配慮がたりなくなる訳ですが、

それをフォローアップするのが、地域の役割なわけです。

 

まあ、不良かどうかも価値観に縛られてるから、不良と思ってしまう訳ですが、

それは大きく急に変えられない価値観なのでおいといて、

学校は、「公教育はこうでなくてはならない」という価値観を捨てれば、

やれることはたくさんあるよね。

 

 まずは、機能しなくなってきていることを自覚することです。

教育は学校でだけ行われる訳ではないし、そこでやっていることこそほんの一部分であることを受け入れることです。

 

社会はこれからもっと多様になっていきます。

 

学校の先生しかしたことない人に、教えられることはどんどん減っていくでしょう。