津屋崎・毎日の大切なこと

津屋崎で日々暮らすなかで、耳にし、目にし、口にする、いろんなモノゴトを、自分の軸を持って綴ります。

何が問題なのか。

ここ数ヶ月、問い続けていることがあります。

 

それは何が問題なのか?

その先に何があるのか?

 

という二つの問いです。

 

例えば、僕の周りでは、

町おこしや、まちづくりを目的として、

移住促進や、イベントの開催、古民家の再生、商品開発などが行われています。

 

その営為の背景には、

若者の流出による人口の減少、産業の衰退に伴う雇用の減少あるいは基盤としての雇用の少なさ、空き家の増加などが、問題としてあげられています。

 

これらの問題の悪化に、プレイヤーたちは、地域の衰退や地域的個性の喪失という危機感を抱いているわけです。

 

果たして、ここに問題は本当にあるのでしょうか?

例えば、津屋崎という町が、人口も減り続け、産業もなくなり、もぬけの殻になり、

そのような現象が、各地で起こったとしましょう。

何が問題なのでしょうか?

都市一局集中による均質化が問題でしょうか?

津屋崎がなくなることが問題でしょうか?

 

どれも結論から言えば、別に問題ではないですね。

 

何がこれらを問題「的」なものとさせているのか?

まず、表層にあるのは悲しみだけです。

その悲しみの根源にあるのは、「執着」以外の何物でもありません。

よく言えば、「愛」ですね。

 

そして次に考えるのが、問題「的」なものの解決の先に、

何があるのか?どこへ向かおうとしているのか?

 

という問いかけです。

 

これらを解決することで、何をしたいのでしょうか?

減った数を元に戻したいのか?

増やせるだけ増やしたいのか?

増えたら何がいいのか?

それがすべての地域で起こったらどうなるのか?

 

「増やす」ということで、得られるのは、

「安心感」それだけです。

 

他に何があるでしょうか?

人が多くて、町が賑やかで、なにがいいのでしょうか?

 

人の感情の変化(嬉しいとか楽しいとか)と、消費の増大以外に、なにがあるのか僕にはわかりません。

多ければ多いことをよしとする、都会の論理以外に見えるものがありません。

また消費を助長し、促進しているようにしか見えません。

こんなことが、すべての地域に起こったらと考えると恐ろしくてなりません。

 

日本は、日本の領土で1年間に生産できる資源の7倍を消費していると言われています。

エネルギー消費を地球規模でみると、すでに地球1.5個分が必要です。

wired.jp

 

すでにキャパオーバーしているのに、さらに消費の主体を増やしたいという理屈の先には、

人類の寿命を減らしてもいい、

孫の代は関係ない、

自分のとこは増やしたいけど、それ以外の地域はどうでもいい、

という言い分を、未必の故意的に許容するというか、掲げていることになります。

 

事実として。

 

僕個人の考え方として、

地球を救おうとか、エコにとか、そんなことを広めようというのはありません。

どのような目的であろうと、それを遂行することで、食っていってるわけなので。

誰かの「こうやって生きていく」というのを否定する権利は僕にはありませんから。

だから町おこしも、町づくりも、好きな人が好きなようにやっていいと思います。

 

ただ、これから行う自らの営為に関して、高いレイヤー(感情の変化をもたらしたいという低いレイヤーではなく)で目的を持つことや、

あるいはさらに広い視野で見つめた時にどのような位置にあるのか、どこへ向かうのか、

そんなことを考えていく必要はあると思います。

 

赤ちゃんじゃない、

大人の責任としてね。