僕が始めた教育について
僕は、公教育には、限界があると考えています。
一人の先生が、30人以上を教えているわけだし、
教えないといけない単元も山ほどあって、
なおかつ、それらの習得には、「これだけできればいい」という基準がない。
あったとしても、「テスト」という宗教によって意味をなしていない。
さらに、先生は、担任という仕事で、親の顔を伺わないといけない上に、
部活動の顧問も任され、通常の授業とは異なるベクトルの自己実現をサポートしていかなくてはならない。
普通に考えて、これだけのマルチタスクを一人の人間がこなしていくには限界がありますよね。
だから、どうしているかというと、
効率的に、一斉授業をして、答えだけを教えて、テスト教に入信させて、決められた答えを書ける能力を高めるんですね。
間違いに対しては、「違う、これが答えだ」という方法をとるんです。
そうすると、どんな人間が出来上がるのかというと、
・間違えるのが怖い
・自己表現ができない
・答えはひとつだと信じている
・自分で考えないで答えを探す
こんな人間です。
これは、公教育だけに任せているうちは、
仕方がありません。
でも、社会に出ると、このような人格的要素は、
「問題だ!」と指摘されてしまいます。
かわいそうに、、、
先生の言われる通りにやってきただけなのに、、、
ただ、問題であることには間違いないんですよね。
これから長い人生を生きていく上で、
自ら模索し、自己表現していく力がないということは。
そんな問題意識がずっとあって、
僕は私塾を始めました。
もちろん僕一人で農業もして、教育もするとなると、
無理があるので、
教育に興味があると話していた木村に、
塾長をやってくれと説得し、今まで形にしてきたわけです。
僕が私塾を始めるにあたって、掲げないといけないと感じたことは、
「脱教育」です。
これは、教育の最終目的。
この目的を幾つかに分解すると、以下のようになります。
- 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
- 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
- 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
- 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
- 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。
これは、僕が考えたわけじゃありません。
僕が思っていたことを、より明確に文章にしてあったので、引用しています。
実際、これは、教育基本法の教育の目標です。
学校に通わせてる親も子も、
知らなかったでしょ?
結構いいこと書いてます。
この前の条には、教育の目的が書かれていますが、
僕は間違っていると思うので、
そこは省きます。
つまり、この目標が言わんとしていることは、
教育の必要ない人間になれ、ということです。
自ら必要な知識を探求し、幅広い視野を持ち、視野に入るものすべての利害関係を把握しながら、行動できる人間になりなさい、ということです。
個人的には、社会というワードは、人間関係に視野を限定するものなので、
使うべきではなかったと思いますが、それが国の認識の領海ということですね。
まあでも、この教育基本法が戦後にできる前までは、
皇国のために学べー(教育勅語)だったから、ましになっていると言えます。
善悪でましというよりも、認識の範囲が広くなったという意味で、まし。
2段落分、話が逸れましたが、
教育が必要ない人間に育てるために、
僕がしないといけないと考えていることが、
1、彼らの思考言動を、深める問いかけをし続けること。
2、彼らの思考言動を、広める問いかけをし続けること。
3、1と2を自分で行う方法をルーティンとして持たせること。
この三つです。
これまで木村を中心に、通常授業を行ってきましたが、
特別講座を月一で開講します。
対象は高校生以上です。
後日告知します。