道具
生物は、長い時をかけ、
環境に適応する(適応しているかどうかは置いておいて)形で進化してきました。
もちろんその都度の変化は、完璧な適応ではないので、
今でも変化しているわけです。
なので、進化の過程を無矛盾過程と捉えてはいけません。
全ての前進には、なんらかの失敗を孕んできたわけです。
人類は、そのような進化の中で、少し特殊です。
他の生き物たちは、体の作りを変化させることで、環境に適応してきましたが、
人類は、道具を作る形で、環境に適応する道を選びました。
歴史の勉強では、石器が最初に登場しますね。
その他にも土器、木器、青銅器、鉄器など、
自然のモノを可変して、身体の延長としてきました。
この作業はすべて複雑性を縮減するための行為です。
道具を作るとはそういった行為なのです。
簡単に言うと、めんどくさいことを、
簡単に行えるようにする、ということですね。
さて、本題ですが、
この「道具」というのは、モノに限った言葉ではありません。
ツールといえばイメージの幅も広がるでしょうか?
コミュニケーションツールとかね、そんな感じですかね。
この観点から言えば、
「社会」も道具の一つです。
ちなみに、いろんな人が、社会という言葉を簡単に使いますが、
そのほとんどが、それが何を指しているのか、
理解せずに使っていると思っています。
社会というのは、
意味による秩序づけを行う人間同士のコミュニケーションのことを指します。
つまりは、伝えたいことを簡略化した意味によって、
文脈(文章の話じゃなく、いろんな物事のつながりという意味)を構成し、
人同士のやりとりを円滑にしている営為全体のことを指すのです。
したがって、複雑性を縮減し、
生きていくために生み出されたという点で言えば、
社会つまりはコミュニケーションの総体も、
道具と言って差し支えないのです。
社会も、それに関わる価値観も、道具なんです。
私たちがコントロールする代物と言っても過言ではありません。
社会は、道具だ。
そう捉えた時に、どうでしょう。
道具のために生きている人が多すぎるように思います。
道具に使われている人が多すぎるように思います。
社会の中をいくら探しても、
そこに本質はありません。
だって、社会は、
楽に生きるために作られた怠慢の濃縮還元流動体なんだから。