津屋崎・毎日の大切なこと

津屋崎で日々暮らすなかで、耳にし、目にし、口にする、いろんなモノゴトを、自分の軸を持って綴ります。

「三粒の種」とは、なんなのか。

「そこにある当たり前を捉え表現し続ける。」

というのが、私たち三粒の種のミッションです。

 

重要なのは、「当たり前」というところです。

「当たり前」を認識できる過程を、常に提示し続けるということです。

私たちが日頃明確に認識できなくなったところに、「当たり前」のものとして、私たちを成り立たせている事物があり、そこに本源的なものがあるからです。

 

これを何のためにするのか、というと、

三粒の種という言葉の意味である、「視野」を持つためです。

 

一粒は虫のため、

一粒は鳥のため、

残りの一粒は人のため。

 

虫と鳥と人のためにやる、という意味ではありませんからね。笑

 

そのような「視野」を持つべきだということです。

私たちは部分であり、その他の数多の部分と共に一つのシステムを構成し、

生きるわけでも生かされるわけでもなく、ただ在るのです。

 

そして、そのような「視野」を、なぜ持つ必要があるのかというと、

「与える経済をつくる」ためです。

 

ここからは教養の問題と解釈の問題で想起できるかできないかに分かれるのですが、

人類の歴史において、現在のような奪う経済が行われている時間よりも、

与える経済が行われていた時間の方が圧倒的に長いんですね。

※教養がないと、いくらわかりやすく言ってもわからないことはあると思っています。これは50音を読めなければ、あるいは最低限の単語を知らなければ、日本語を読めないあるいは理解できないのと同じです。

 

私は、かつて考古学という学問をしていて、

弥生時代から古墳時代にかけての国家形成論を学んでいたのですが、

私の知る限り、現代と変わらない仕組みで経済が回り始めたのは、

弥生時代の中期ごろからです。

 

自集団の再生産の手段として採用された経済活動に、

搾取が伴い始めたのが弥生時代の中期ごろということですね。

なので、今の経済が日本のタイムスケールでいえば、2500年で現状に行きついたということです。

 

それ以前は、

自然との関係においては「与えられる」という感性で関わりをもち、

自集団内では、「与える」ことが地位であり、

他集団との関係は、「与えること」で競争をしていました。

 

人類史において、こちらが圧倒的に長いんですね。

 

当然のことながら、全ての地域がそうだったかはわかりません。

もちろん、一説という言い方をしてしまえば、それも間違いありません。

 

ただ一つ、

このような経済が存在していたというのは間違いないんです。

 

私はたまたまそのことを知っているので、

今の先(終わり)が見える経済ではなくて、与えることで回る経済をやりましょうよ。と思っているわけです。

 

しかし、昔と現在とで決定的に異なるハードルが存在しています。

それは「認識」というハードルです。

私たちは生きていく上で行う交換という行為全般を、現在の経済の価値観で認識してしまっています。

だから、かつて行っていた与える経済を行うためには、その認識を理性によってコントロールする必要があるのです。

 

その理性というのが、上の方でいった「視野」ということになります。

ちなみに「視野」を持つためには、「教養」も必要だと思っています。

昔はこんなのなくたってできたんですけどね。だって、そのような経済しかなかったから。笑

 

私たちは、今目の前に見えるあまりにも多い答えらしきものの中から、不要なものを切り捨てて、選択するということをしていかないといけません。

 

私にとって、

農も、教育も、そのような視野を持つための一つの構成要素に過ぎません。

過ぎません、といっても、大事じゃないという訳じゃありませんからね。

それらが全てではない、それ自体が目的ではない、ということです。

 

農を行うことに関しても、

教育を行うことに関しても、

近視眼で捉えれば、「安心安全野菜だー」とか、「自立した人間形成だー」とか、

そのように見えるかもしれません。

ですが、500年後、1000年後、私が提示する視野が、どのような具体的構造を取るかはわかりませんが、「与えることで回る経済」を実現すればいいなと思っています。

 

未来のために、よりよい源泉であることを常に行うということでしょうか。

 

これからも生きるのであれば、

価値のある「生物」として生きていきたいと思います。