津屋崎・毎日の大切なこと

津屋崎で日々暮らすなかで、耳にし、目にし、口にする、いろんなモノゴトを、自分の軸を持って綴ります。

確信

ここ数日の記事は、心の変化から、抽象的になっていますが、

言葉が見つからないだけで、頭がおかしくなったわけではありません。

頭がおかしいのは、たぶん元からです。笑

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目を開けていられないほどの夕日を見たことがある。

 

それは、私のためではなく、私のためでもある。

 

それは、父や母の注いでくれる愛情に似ている。

 

私はその眩しすぎる愛情を、眩しすぎるが故に、

ちゃんと見たことがなかった。

 

だから、知らないんだと思う。

 

 

でも、誰しも、それを注ぐ側にまわる瞬間が来る。きっと来る。

そんな気がしている。

 

たぶん、それは誰かの純粋な心に触れた時に起こるもので、

自分一人で考えて、まわれるところではない。

 

その瞬間は人それぞれで、

子供ができた「時」、かけがえのない友に出会った「時」、

大切にしたいと思える女性に出会った「時」。もしかしたら何かを失った「時」。

 

それは突然訪れるのだけど、正確には突然ではなくて、

その人との「間」がゆっくりと縮まって、その「間」の中で、

突然その「時」がやってくる。

 

理解できないその感情に戸惑い、それに接しながら確信を持つ。

 

自分のためにあった世界が、世界のための自分になる。

何かに貢献したいわけではない。世界をよくしたいからそう思うわけでもない。

 

こみ上げるように、こう思う。

この人を大切にすることは、「自分のため」を超えて、まだあまりある。

 

それを感じた瞬間に、何かとても優しくなれたような気がした。

 

人間の価値を問いに訪問したアッシジで、

唱えた「平和の祈り」の言葉。二節の一文目を想う。

 

ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。
  理解されるよりも理解する者に、
  愛されるよりも愛する者に。

 

言葉を読んだあの瞬間が、心に種をまいていたのかもしれません。

 

一年と数ヶ月が経って、

手のひらを太陽に翳した時に感じる生きているものの実感に似た

収穫をさせてくれているように思います。

 

私は何に感謝すればいいのだろう。感謝する先が多すぎる。

きっと本当は全てがそうなんだ。

 

何を通してそれを想えるか。

私は一つ見つけた。

きっとそれが「大切」と言えるものなんだろう。

 

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平和の祈り全文

 

主よ、わたしを平和の器とならせてください。
  憎しみがあるところに愛を、
  争いがあるところに赦しを、
  分裂があるところに一致を、
  疑いのあるところに信仰を、
  誤りがあるところに真理を、
  絶望があるところに希望を、
  闇あるところに光を、
  悲しみあるところに喜びを。

ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。
  理解されるよりも理解する者に、
  愛されるよりも愛する者に。
  それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、
  許すことによって赦され、
  自分のからだをささげて死ぬことによって
  とこしえの命を得ることができるからです。

 

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