コップに何を注ごうか。
コップに液体が半分入っている。
半分入っているとわかるのは、フチがあるからだ。
フチがあって、
そこまで満たされていたものが、
半分になるから、
それを満たそうとする意志というのが働く。
人というのはそういうもんだ。
最初からカラよりも、あったものがなくなったときのほうが力は大きい。
満タンであれば、
注ぐ余地はなく、注ぎ手も生まれない。
半分にすることで、あるいは減らすことで、
注ぐ余地ができ、注ぎ手も生まれる。
さあ、注ごうか!となったときに、
「このコップに入っている液体はなんなんだろう?」
という問いが生まれるはずだ。生まれて欲しい。
コップに入ってるものが水とは限らない。
水だ!と言ってしまうのは、ただの独りよがりな決めつけ。
「同じもの」を入れようにも確認が必要だ。
飲んでみたのか?成分の検査をしてみたのか?
その上で水と言うなら、それはそれでいい。
まずは、そこに何が入っているのか確かめることが重要ではなかろうか。
仮に検査して飲んでみて、コップに何が入っているかわかったとする。
そうすると、次に、
「この液体に何を足して、どんな飲み物にしようか?」という問いが生まれる。生まれて欲しい。
同じものでもいいし、違うなにかでもいい。
思い通りにいかないかもしれないが、
みんなで話し合ってそれを描くのがいいだろう。
これは、自由で、創造的で、伝統的な作業となる。
これを通して出来上がった、その液体には、みんなの想いがこもると同時に、
みんなが責任を持つことになる。権利もしかり。
仮に、まずかったとしても、苦い顔して「う、美味い」と笑えるだろう。
もちろんみんながみんなじゃないけどね。
概ね、私たちがやろうとしていることはそういうことだ。