津屋崎・毎日の大切なこと

津屋崎で日々暮らすなかで、耳にし、目にし、口にする、いろんなモノゴトを、自分の軸を持って綴ります。

どこがやるべきことをやっていないのか?

年に数名、

「うちの子が引きこもって誰に相談していいかわからず、話を聞いてもらえませんか?」という連絡が来る。

教育的な仕事をしている関係で、小学生から、大学生までの親御さんが多い。

 

みなさん、福津市に住んでいる方だ。

 

ちなみに、僕は「引きこもり相談のります」とか、「学校に行けない人でも適応できるように」など、謳ったことは一度もないし、その類の専門家でもない。

 

でも、なぜ「誰に相談していいかわからない」状況で、僕なのか?

藁をもすがる思いで、僕なのか?

 

このご時世に「誰に相談していいかわからず」という状況は、

どこに責任があるのだろうか。

 

※話しは聞きますが、具体的なアドバイスは行っていません。

欲する機会を提供することはあります。

足すことよりも、引くことが必要なのではないか。

「私は〇〇をやりました!」「いいね!」

 

「私は〇〇をやります!」「いいね!」

 

「私はみんなとは違うこんないい考えた方してます!」「いいね!」

 

「これって今までにないイノベーティブなことだろ!」「いいね!」

 

「どんどん新しいことやってこ!」「いいね!」

 

「クリエイティブ、イェーイ!」「いいね!」

 

「スケジュール帳」が埋め尽くされていて何もできない状態になっていること、

その状態に自らなろうとしていること、

それによって「本当に新しいことをつくる」機会を失っていること、

に気が付かない。

 

それによって、5年先、10年先が見通せないことに気がついていない、

その状態が、グッドであるか、バッドであるか、以前にその天秤に乗せる余裕すらない。

 

個人であれば、それでいいとしましょう。

個人の問題なので。

 

しかし、地域ひいては社会ではやめてくれ。もう少し先と周りを見て考えろよ。

と思っています。

 

今、必要なことは新しいことではない。

「何をやらないか」決めることだ。

 

地域行事もそう、政治もそう。

 

それぞれ目的は一緒で、

何かやらないと評価されないし、「多い」方が評価される。

 

 

でもね。それって、埋め尽くされたあとに何がある?
埋め尽くしてどうなりたい?答え持ってる?

 

埋め尽くしたって、その先にあるのは新たな欲求だよね。

 

人類史ってそうだから。

 

その先にあるのは、何かをしてないと認められない社会だし、

何かできないと認められない社会なわけで、

すでに今はそうなってきてるよね。

 

今のうちに引けるものは引かないと。

 

詰めていたら感じられない。

自己の肯定的過程は、誰でもない時空間にしかないんだよね。

 

地域もそう、政治もそう。

 

引かないと。

「評価」することとは

よっちゃん祭の終了を通して様々な反応を頂きました。

このように感じていたのか、そんな歴史もあったのか、と学ばせていただいております。

 

一方で、僕の性格上、理解しがたいのが、

今まで一切関わっていなかった人の「評価」です。

 

要は、「ダメだし」ですね。

 

ただ、これすらも学びです。

 

人が大切に発信していることに対して、

「審査委員でもないのに」(笑)

「わざわざ」「評価」する場合は、

「本人」の想いをとことん聞いたうえで、

「直接」伝えるべきだと思いました。

 

これはもしかしたら「当たり前」なのかもしれません。

 

ましてや、SNS上で、公衆の面前で、「評価」を行ってはいけない。

 

それをやってしまうと相手に対して失礼だし、

応援しようとしている人たちにも失礼ですよね。

 

どんな子に育ってほしいですか?

どんな子に育ってほしいですか?
と問うたら、
「優しく思いやりのある子」と答える大人がほとんどなんじゃないかと思う。
少なくとも、他人の非を責め叩き潰す子に育って欲しいと言う大人はいないのではないかと思う。
私たちは、共同で、社会という子を育てていることを忘れてはいけない。
どんな社会であってほしいですか?
と問うたら、
「優しく思いやりのある社会」と答える大人がほとんどなんじゃないだろうか。
少なくとも、他人の非を責め叩き潰す社会であって欲しいと言う大人はいないのではないかと思う。
戦争発言議員のことしかり、
地元の中学校の教員のことしかり、
駄目なこといった議員がいたら、
「このボケが、くそアホが、消えろ!」じゃなくって、
「なんでそんなこと言っちゃったんだい?そこまで言うってことは何か強い思いがあったんでしょ?どうしたらもっと良くなると思ってるの?話したい言葉ではなしてよ。君とわかりあえたら、そのあと迷惑かけた人に一緒に謝り行こう」だし、
駄目な先生がいたら、
「どういうことだ!そんな人にうちの子は預けられん!替えろ!」じゃなくって、
我が子に「先生にも得意不得意がある、不得意なところがありそうなら、それをどうやったら助けられるか考えてあげなさい。みんなにもそうやって伝えたらいいよ。助けるつもりのない子がいたら、助けられるように大人が力を貸すから、良いクラスになるようにみんなで協力しなさい」だと思う。
子どもを育てることは社会を育てることであって、
子どもは用意された社会を享受するしかない。
だからこそ大人には責任がある、と言ってしまいたくなるが、捉え方は個々人の自由。
むしろ、その自由の中で立場が選択されていくことが重要なのだと思う。

どこへ向かうのか。

どこへ向かうのか、

ということを考えるうえで、

歴史を使えるかは重要。

 

「教養」といった方がいいのかな。

どうも歴史と言ってしまうと、義務教育課程の弊害により、

通時的な出来事まとめのように認識されてしまうので。

 

概ね、通時的な出来事まとめに構造主義的なフィルターをかけられていたら、

最低限の解釈はなされているのかなと思います。

 

昨今、水面をバシャバシャと叩く活動が多く、

それが非常に「わかりやすい」(悪い意味で)ので、

浸透してますね。

 

かつてのギリシャでは、

不安定な時代にソフィスト(詭弁者)がはびこり、

それぞれが好き勝手言って混乱を招きました。

 

この混乱は、一定の価値を持っているので、必要なことではありますが、

現在はその状況にあるということは認識しておくべきでしょう。

 

あと5年で、社会がどう動くのか。

戦後からしたら、最も大きな転換点になることは間違いないと思います。

 

このタイミングでどのように振舞うのか。

それが、今の時代を生きる大人の価値を決定づけるものとなるでしょう。

 

「歴史」というものを、執着ではなく、

未来の誇りのために使うことができるか。

 

世界に存在するということが、ノーボーダーでとらえられる精神性を、

一般的に醸成できるか。

わかりやすく言うと、年間1兆円稼ぐ人と、一円も稼がない人との間に差はないことを、「みんな」が理解できるかどうか。

 

ただ町を歩いていると、ビールの缶、たばこなどが道に捨てられていて、

すべてが遠く感じるのです。不可能なのだろうという諦めすら襲ってくるのです。

教育とは、元来必要のない過程である。

「教育とは、なぜ必要か?」ということを考えたことがあるだろうか。

 

「教育とは、元来必要のない過程である。」

これが前提になくてはならない。

世界は、そのようなものがなくても生きていけるように出来ている。

 

決して、「社会に適応するために必要不可欠である」という前提で始めてはならない。

決して、「豊かさを得るため、自由を得るために必要不可欠である」という前提で始めてはならない。

世界は、本来、それぞれの存在に合わせてくれる柔らかさを持っているし、

それぞれの存在は本来、豊かで自由だからだ。

 

教育で提供しようとする豊かさ、自由は、虚構であり、

貧しさ、不自由に対してその場しのぎの上塗りをしているに過ぎないことを、忘れてはならない。

そして、その貧しさと不自由に、教育を行おうとしている自分自身も加担していることを忘れてはならない。

 

だが、この社会を作ってしまったからには仕方がない。

 

彼らを不自由にしたことに対して頭を下げながら、

彼らが、自由であれるように、広げるしかないのである。