津屋崎・毎日の大切なこと

津屋崎で日々暮らすなかで、耳にし、目にし、口にする、いろんなモノゴトを、自分の軸を持って綴ります。

足元の疑

そこから発せられる認識され得るものの認識は、

徹頭徹尾、検証不可能なそれである。

 

そして、それは発せられると同時にその源泉からかけ離れ、

干渉を受け、世界から修飾されるのだ。

 

自己は、修飾されたそれを源泉のそれとして認識し、

誤謬のなかで生きるのである。

 

「在る」としての意志は常にそこにある。だが、その「在る」の在り様を、

認識することはできない。が、自己は認識する。

 

それに気がついた時、

足元に疑は向かい、

梯子を外されるのだ。

 

落ちるでも浮くでもなく、そこに在るでもなくなるのである。