足元の疑
そこから発せられる認識され得るものの認識は、
徹頭徹尾、検証不可能なそれである。
そして、それは発せられると同時にその源泉からかけ離れ、
干渉を受け、世界から修飾されるのだ。
自己は、修飾されたそれを源泉のそれとして認識し、
誤謬のなかで生きるのである。
「在る」としての意志は常にそこにある。だが、その「在る」の在り様を、
認識することはできない。が、自己は認識する。
それに気がついた時、
足元に疑は向かい、
梯子を外されるのだ。
落ちるでも浮くでもなく、そこに在るでもなくなるのである。