教育に関する二つの原理について
教育において、
明確に意識しておかなくてはならない二つの原理がある。
と、僕は思っている。「僕は」思っている。
賛同を得たいわけではない。
それは、
西洋哲学原理と
東洋哲学原理の二つである。
西洋哲学原理とは、自己の外に問いを向けそれを弁証法によって解き明かして行く哲学過程であり、科学と呼ばれるものの根本原理である。
この原理は、自己の外側をうまくコントロールする、支配することに長けた原理である。
20世紀後半、レヴィ=ストロースが構造主義を組み立てる中で、
文明の発展は、西洋文明へ向かう一つの道筋だけではなく、
いろんな発展があり、それぞれが認められるべきものであると説くまで、
西洋哲学原理は絶対的なものだった。
なので、いろんなものが多様性を欠き、
絶対的な何かに向かおうとする「癖」が、
世界にはある.
レヴィ=ストロースの功績が、文化人類学の枠に入ってしまったことは本当に残念なことだ。
東洋哲学原理は、自己の内面に問いを向ける哲学過程である。
これは、自分の中にあるものを深く捉えることに長けた原理である。
そのため、短期的に効果を計ることは難しく、疎かにされがちである。
「梵我一如」あたりから、儒教の手前くらいのニュアンスが強いだろうか。
※儒教あたりから価値観の押し付けが強くて興ざめである。
学校教育では、明確に前者に偏りがある。
社会で生きるという言葉を、経済活動への適応と捉えた場合にのみ、
この偏りは間違いではない。
しかし、社会で生きることは、個人にとって手段である。
ましてや、経済活動への適応は、手段の一部分である。
そのため、その手段の使い方を考える術を教えないといけないのだ。
そう、それが、東洋哲学原理による教育である。
それは主にベーシックな問いによって行われる。
「それは、なぜ?」「それをなんでgood/badと思うの?」
「なぜ?」は複数回繰り返すこともある。
これによって、
自分の考えや意見が、抽象的になっていくのと同時に、具体的になっていく。
この過程があって初めて、
「判断」による「選択」ができるようになり、
すべてに「意志」が宿るのである。
そして、この過程は、もう学校では手に負えないことが明確だ。
担えるものが担うしかない。
※事象の構造的理解と分割、層序の把握は、できないといけない。
※西洋哲学原理も必要。
※西洋哲学と東洋哲学を教えなさいという意味ではない。笑
This is Nobuki speaking.