津屋崎・毎日の大切なこと

津屋崎で日々暮らすなかで、耳にし、目にし、口にする、いろんなモノゴトを、自分の軸を持って綴ります。

一秒の中にも宇宙は全部入っている。

今日はさんたねMTGを開きました。

 

三年前につくったものを見つめ、

その社会とのコミュニケーションツールを、

創り変える作業に入りました。

 

創るというのは、いつも胸が踊る。

 

羊飼いが言いました。

「この一秒にだって宇宙が全部入ってるんだ。」

 

そう考えると、なんだってできるような気がしてきます。

手放す。

僕たちも手放すタイミングが来た。

そんな気がする。

 

最初に握りしめた、あのなんだかわからない答えらしきものを。

 

三年で一区切りなのかもね。

 

この最初の答えは、なにも見ぬまま産んだ答え。

手放すのも遅すぎたのかもしれない。

ただ、その答えにすがって、糧になったこともおおいにある。

 

「本当の夢は10年しないと生まれてこない」と近藤文夫さんに言われたけれど、

きっとそこに向かっているんだろうと思います。

 

先日、久しぶりに主催ではないプログラムに参加して、

半分スタッフとして動いた時に、

「普段、自分はやれることを全部やっていない。しかもいろんな機会を潰している。」ことに気がつきました。

 

まだ深く行ける、という感覚があります。

なんかいろんなヒトモノコトに感謝です。

20年後の絶対

僕「20年後はYさんと同い年かー、なにやってんだろうね」

 

「なにやってんでしょうねー、全然わかんないですねー」

 

僕「わかんないねー、でも絶対今とは違うことをしてると思うなー」

 

「あー、でも意外と絶対とは限らないかもですよ。意外と意外と」

 

と、その人は、僕の20年後の絶対をぼやかしてくれました。

 

「決めつけはいけないなー」というその人を前に、

たまに「絶対」を使いたくなってしまいます。

たまに決めつけて、なにが返ってくるのか試したくなってしまいます。笑

 

でもたまに同じ「ような」ことをされているような感覚もあるからイーブン。

 

 

「絶対」

  1.  他に比較するものや対立するものがないこと。また、そのさま。「―の真理」「―な(の)存在」「―君主」
  2.  他の何ものにも制約・制限されないこと。また、そのさま。「―な(の)権力」

 

 

という意味だそうです。

 

 

比較対立するものもなく、制約も制限もされない、

なんてことは「絶対」ありえないんだけど、

もし僕が「絶対」という言葉を使って、

誰かの拠り所になるんであれば、

うまいこと使っていきたいなーと思います。

 

あー、なんか、

思考を停止させてしまう「絶対」と、

誰かの思考を支えられるような「絶対」がありそう。

 

あー、これも「絶対」と対峙したからか。やられた。

好き

今日は朝から百年読書講座でした。

 

今回から中学生も参加です。

 

課題図書は、スタートに戻ってショーペンハウアーの「読書について」

古い哲学書です。

 

彼らにとっては、始めて触れる哲学書。

 

内容を大人2人がまとめてきて、説明します。

 

節ごとに、感想や、どんなことが書かれていると思ったか、

彼らに尋ねました。

 

その感想を聞いた後に、僕が噛み砕いて説明をします。

 

この過程で、とても驚いたことがありました。

 

普段は多くを語らない、一人の女の子が、

内容を饒舌に語るのです。

 

あの難しいショーペンハウアーの文を語るのです。笑

 

もちろんまだ自分で読んできてまとめなさい!というのは、

させていないんですが、今日聞いて読んだ内容を語るのです。

 

彼女は、読書好き。

きっと好きだからだろうと思います。

 

「私たち中学生はこういういろんな本に触れる機会が少ないから、こういう機会がもっと欲しい」と、願望を聞いていないのに、願望を残していきました。笑

 

それ自体も意外。

素敵すぎる!

 

昨日、ふらんす屋さんで買ってきた、

チーズケーキをニヤニヤしながら食べられそうです。笑

ポンっと置かれた。

ポンっと置かれた。

 

という言葉が好きだ。

 

それ以上でもなく、それ以下でもなく。

ただそこにある感じ。

 

そして、三粒の種を通して、自分がどうありたいか、

というのも、この言葉が当てはまる。

 

感覚の話ではあるけれど、

最近ちょっとずつ言葉になってきた。

 

拡がろうともせず、縮まろうともせず、

媚びず、流されず、

不要とは対立していない必要なものとして、

ただそこに在って、

人を善でも悪でもないところで、

汲み取る場所?みたいな。

 

誰かが目的地としてくるわけでなく

すれ違う程度の人が、ハッとするような。

誰かの居場所であって、その居場所を問うような。

立っている場所を問うような。

 

なんかそんな感じのやーつに、

ワタシハナリタイ。笑

心から

心から、

 

という感情に、最近よく触れます。

 

きっかけはわかっているけれど、とても不思議な感覚です。

 

心から悩んで、何もないように思えるところから何かを探そうとして、

深ーく、深ーく潜って、気付くんです。

 

その潜っている空間は、探していた何かに満たされていたんだって。

そして、一番奥底から、綺麗な何かが脈々と湧き上がっているんだって。

 

私は、

それに気がついた、心からの何かに触れた時、

涙が溢れ出します。

悲しくもなく、嬉しくもなく、ただ溢れだします。

 

歳のせいもあるかもしれません。

 

そんなとき、その何かをもっと汲み取ってあげたくなるんです。

 

見えるものと見えないもの

ポンティが言っていました。

 

見えるものが見えないものとして、見えるものを見えさせる。

って。

 

中秋の名月の今日。

その見えるものは、雲、真っ只中だ。

 

何もみえない。

 

ただ、今日において、見えることと見えないことは、本来重要ではない。

 

お月見とは、 

見えるものを見えないものとして、見えるものを見えさせるようにするのである。

 

きっと愛でるとはそういうことである。

 

確実にポンティが言った意味とは違うけど。

 

なかなかいい夜だ。

豆を挽き、湯を沸かし、少し冷まして、フレンチプレスに注いで、

少し濃く出し、苦いコーヒーで、団子を食べる。

そして、相も変わらず、僕の愛機は使い物にならない。

 

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蚊は多いし、団子に虫が飛んでくるけど、

ランタンの音と、虫の声が聞こえて、

僕は基本的にこれだけで十分だ。