津屋崎・毎日の大切なこと

津屋崎で日々暮らすなかで、耳にし、目にし、口にする、いろんなモノゴトを、自分の軸を持って綴ります。

とあるやりとりと、

とある日のお野菜を取ってくれている方とのやりとり。

 

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うーさん

安納芋、甘くてとても美味しかったです(≧∇≦)

おいもボーロを作ったら、いっぱい食べました!

離乳食にも手作りおやつにも安心して食べさせられるし、

おいも以外のお野菜も味が濃くていつも感激の美味しさです。

いつもありがとうございまーす♪

 

ぼく

ふふふふふ、ありがとうございます♪

ふふふふ お芋ボーロ僕も食べたい、、、笑

 

うーさん

ふふふふふ、お芋とひじきのクッキーも砂糖なしで甘くなりました♪

ボーロ、大人も手が止まりません~笑

 

ぼく

なんと、なんと、、、 ひじきが出会いましたか、、、 天才、、、

このやりとりブログに載せたりしてもいいですか??笑

 

うーさん

はい、畑と海の出会いです♪

ブログ、もちろんOKです! 作ってもらって、届けてもらって、こういう風に美味しく頂いてます!って言えたらいいなぁと前から思っていたので(*^-^*)

 

ぼく

ありがたやーありがたやー!

農家さんに直接伝えられるいい方法を考えねばーと思っているんですよねー、、、

 

うーさん

自分のインスタグラムではちょいちょい載せてるんですけどね~

ありがとうの会に参加させてもらって、尚更思いました。

お野菜と一緒に、こうやって食べましたーって書けるアンケートみたいなのを渡して、次週の配達時に回収するとか? 集計とか大変だったら、お手伝いさせて下さい\(*^▽^*)/

 

ぼく

ありがとうございます♪

アンケートよいですねー♪ 顔とか温かみも伝わるようなアンケート方法ってないですかねー、、、笑

お手伝い、ふふふふふ、お願いするかもしれません、ふふふふふ

 

うーさん

そうですね~、文字だけじゃなくね~ ありがとうの会の時、ビデオレターみたいなの上映できたら、来られない人も参加できるし、皆で共有できますねー

顔とか温かみの伝わるアンケート方法… ひらめくといいなぁ~

 ふふふふふ、お手伝い 喜んで! ふふふふふふふ
 
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ふ、がやたらと多くて気持ちが悪いけれど、
津屋崎内のいわゆる「お客さん」(友人と思っているけれど)との嬉しいやりとりです。
 
 
温かみとか優しさを、日常的に伝えあえる方法はないだろうか。
僕は、それを地域という僕の手の届く範囲に据え置きたいし、
僕が何かを売っているとしたら、それを売っていると言いたい。
 

ボーダーがぼんやり

僕が行う活動は、必要な事をシンプルに行う、ということを大切にしています。

 

必要な事だからこそ、誰でも出来ないといけないし、

何かとの違いを狙ったひねりは、本質から逸れる/逸れやすい、と思っているからです。

 

そんな想いの中で、現在力を入れているのが、

・作る人、食べる人が、お互いに想いを馳せられる環境の中で野菜を流通させる事

→地域の野菜を地域の人に届ける仕事

 

nobukicorner.hatenablog.jp

 

・中学生に社会の中で役割を持ってもらう事

→民間運営の部活「学生企画実行部」

 

nobukicorner.hatenablog.jp

 

 

の二つです。

 

きっとどちらも古くからある当たり前です。

かつては近場の顔がわかる人が作った野菜を、食べていたし、誰が食べているかもある程度わかっていました。

それに、中学生くらいの子供が地域で仕事をして何かしらの役割を担っていたのも当たり前にありました。

 

僕は、町の中って一人の住民がいくつかの役割を持っていて、

それが少しずつ重なりながら、非効率に成り立っている方が、

楽しそうに見えて、コミュニケーションも多くて、

つまりは「豊か」だと思ってるんですね。

 

そのためには、ボーダーがぼんやりしていることが必要で、

食べる人と作る人が明確に離れていなかったり、

作る人と使う人が明確に離れていなかったり、

子供から大人への区分や、役割の有無も明確に分かれていなかったりが、

結構重要だと思ってるんですね。

 

 

だから僕は何をやっているかわからない人くらいがちょうどいいんだと思ったという話です。

 

 

自己の大きさ、ないしは小ささについて

投影された自己を立ち振る舞わせる舞台において、

その投影された自己と舞台の関係を、

どんな大きさ、ないしは小ささで、在らせるのか。

 

舞台の大きさは一定。たぶん。

認識する幅で大きくも見えるし、小さくも見えるけど、

在るものとして在る。からそもそも大きいとか小さいとかの話ではない。

 

投影された自己の大きさ、ないしは小ささは、

内的な相対的関係において、その大小を自己認識する/していない場合もある。

 

例えば、町おこしのためにイベントを催します。といった場合、そこに投影される自己は、大きい。

 

世界平和のためにゴミを拾います。といった場合、そこに投影される自己は、小さい。

 

意識して、大きくすることもあれば、小さくすることもあるけれど、

向き合ったコミュニケーションをする上で、大きさ、ないしは小ささを、

認識していくことは大事なのではなかろうかー。

 

※大小に善悪は一切関与しておりません。

子供山笠

津屋崎には、祇園山笠があります。

1714年から続く無病息災を願う神事です。櫛田神社から勧請していただくことで始まりました。

追い山は、7月19日に近い日曜日。

7月になると毎週土日は準備のため多くの地域住民が集まり、ともに手を動かします。

津屋崎の魅力があるとすれば、この山笠が形作っている部分もおおいにあるだろうと思っています。

 

そんな津屋崎祇園山笠ですが、

一時中断をしていた時期がありました。

その期間小さく子供山笠が行われていて、

これがのちの復活に貢献したというお話があります。

 

だから、つないできた世代の、子供山笠への思い入れは強いとか。。。

 

今は、子供山笠ないんですけどね。。。僕も見たことはないですし。

 

それで、そんな、子供山笠がひょんなことから動き始めたお話をしようと思います。

 

時は、遡ること1ヶ月ちょっと(9月頭)。

 

学校から一本の電話がありました。

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「お久しぶりですー、A(先生)ですー」

 

ぼく「あーどうも、お久しぶりですねー」

 

「あのー、3年生の授業で山笠作ろうということになったんですけどー」

 

ぼく「おー、いいですね、いつまでに作るんですか?来年の運動会?」

 

「いやー、11月の東雲祭なんですー」

 

ぼく「ぶっ!!まじっすか?笑」

 

「そうなんですよ?出来ますかねー?」

 

ぼく「いやー、あんまり時間ないですね。笑 とりあえず西野木材の西野さんと一緒に打ち合わせしましょう。」

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というのが9月の頭。

 

打ち合わせで先生たちのイメージを伺ったところ、

竹ではなく、木で。

台上がり(台の上に人が乗る)ができる。

飾りつけは子供達が自由にする。

 

結構、本格仕様です。笑

それをたった二ヶ月で、、、

 

津屋崎山笠保存会の許可願いと協力依頼、棒締め時の人員の確保、大きさの想定から図面作成、材木の手配にその加工、そのスケジュールで動いてくれる大工さんの確保、木以外の備品の手配等々

 

いやー、普通は、2ヶ月じゃ出来ないですよ。

みんな本業の合間にやるんですから、、、

他地域の子供山笠があるところの話だと、

本来、打ち合わせに打ち合わせを重ねて、数年かけて作るものだとか。

 

 

 

 

 

とかいいつつ、

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できちゃうんですよね。津屋崎は。

不思議です。

 

保存会のみなさんも、ほとんどすべての準備を担ってくださった西野さんも、

一度たりとも

「出来ません」「難しいですね」「無理です」

とは言いませんでした。

 

山笠三百年の歴史があるのに、この柔らかさ。

 

懐が深い。

 

山笠のこだわりから見れば、妥協したところはたくさんありました。

それを飲み込むのは、保存会のみなさんにとって大きなことだったろうと思います。

 

「それはよかことたい!」と思えば、自分たちのこだわりは必要最低限にとどめて、あとは手放し、全力で協力する心意気。

 

これって、津屋崎にある優しさの一つだと思います。

その分、ちゃんとしなかったら怒られますけどね。

怒ってくれるのもまた優しさです。

 

P.S. 津屋崎には、「出来ちゃう」という空気感があって、

それを僕はたくさん享受しています。

でも多分大事なのは、優しさを注いでくれる方がたくさんいるから、

そうなる「出来ちゃう」のであって、

それと同時に優しさの注ぎ先が、たくさんあることを感じていないといけないのだと思うのです。

足元の疑

そこから発せられる認識され得るものの認識は、

徹頭徹尾、検証不可能なそれである。

 

そして、それは発せられると同時にその源泉からかけ離れ、

干渉を受け、世界から修飾されるのだ。

 

自己は、修飾されたそれを源泉のそれとして認識し、

誤謬のなかで生きるのである。

 

「在る」としての意志は常にそこにある。だが、その「在る」の在り様を、

認識することはできない。が、自己は認識する。

 

それに気がついた時、

足元に疑は向かい、

梯子を外されるのだ。

 

落ちるでも浮くでもなく、そこに在るでもなくなるのである。

 

嬉しそうな。

昨日は、波折宮のおくんちと、奉納子ども相撲大会でした。

 

まだ準備中のお昼過ぎ。

いつも見ているはずの波折様が、

笑っているように見えました。

 

だから、僕は、心の中のそれを、

それでいいんだ、と思えました。

 

手を洗い、藍の家が寄贈した手拭きで一番に手を拭き、

二礼二拍手一礼。

 

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世界の中心

小さな小さな視点だけど、

世界の中心を見つめています。

 

「大切さ」からそのような解釈になるのかもしれないけれど、

でも、僕の精神的世界の中心なのではなくって、

間違いなくその人のために必要なものが、

世界から供給される瞬間を何度も見てるんですね。

 

気持ち悪いくらい不思議です。

 

とても必要と思えるモノの忘れ物でさえ、

その後にそれはもっと大事で必要なことを引き起こすような。

 

必要だと言っていたそのような人が、

ふと目の前に現れる機会が訪れ、

しかもふと発した初めての言葉をその人が汲み取り、

その人から寄っていったり。。。

 

手の甲に書かれた小ささは、

きっと世界からの期待が大きいから。

 

それでも、答えは自分で創っていいんだよ。って、

支えてあげられたら、

僕は世界の中で役割を果たせるような気がしています。