津屋崎・毎日の大切なこと

津屋崎で日々暮らすなかで、耳にし、目にし、口にする、いろんなモノゴトを、自分の軸を持って綴ります。

百年読書講座 vol.04 課題図書 アリストテレス『二コマコス倫理学』

第4回となる百年読書講座を開催しました。

 

今回の課題図書は、

アリストテレスの『二コマコス倫理学』です。

ちなみに二コマコスとは、アリストテレスのお父さんの名前であり、息子の名前。

 

「お父さんに言われたことを本にしたのかなー」など冗談を言いながら進めました。

今回の所要時間はおよそ2時間半。

 

意外とあっという間でノンストップです。

 

今回の内容は、

倫理学なので、論理学とはことなり、「善いこととはそういうものだ!」という側面が、根元に近づけば近づくほど強く出てきます。

 

基本的には、「善」というのがあって、いろんな事柄の「善」という「状態」を説いております。

 

特に「中庸」であることが大事というのは、おもしろかったです。東洋的で。

逆、倫理に劣等を悪とするような価値観を、当然のごとく持ち込むあたりは、

歴史を見る限りの西洋らしさを感じました。

 

善にも、従属関係があって(例えば、善い鞍を作るときの善さは、善い乗馬のため、善い乗馬は、善い移動のため、善い移動は、善い仕事のためのような感じ)、もう上には何もない、という善が最高善だそうです。最高善を目指すのが政治と言っていました。

 

そして、最高善とは「幸福」であると言っています。。なぜなら多分たくさんの人がそういうから。笑だそうです。

 

しかし、幸福には十人十色ある。

だから普遍的な幸福とはなんだろうね。まず、快楽や富や名誉の中には、存在しないはず。

 

幸福とは、習慣づけや学習によって得られるものであり、それを行っていない動物や幼い子供には得られないものだ。

 

というところから、展開していきます。

 

本当はアリストテレスの「自然学」をやりたかったんですが、

ほとんど出回ってないし、出回っても非常に高いので、今回は倫理学で我慢、、、

 

次回は、

デカルト方法序説』です。

 

7月は、山笠で土日が埋まってしまうため、8月末の開催になります。

 

次回も楽しみです。

 

大きなビジョンと小さな手

起業して、5年目。

 

僕の手は、小さい。

 

僕のビジョンは、

「与えることで回る社会」をつくること。

 

それを、100年、200年、あるいはもっと、それ以上の時間をかけて、

1000年後、2000年後の未来のために作っていきたいと思っています。

 

何から始めていいのかもわからないのに、

大学院をやめ、起業し、思うことは、できる限りやってきました。

 

振り返っても何もない。

 

精神的喧騒の中で本質を探し、

経済的主流に則ることに対して葛藤し、

人間の「楽」へ訴求することに反発してきました。

 

その探求と制限の中で、得られた精神の変化というのが、

自分のやっていること、目指しているものへ向かっていることを、

肯定できる唯一の事象だったように思います。

 

だから、肯定できる部分というのは自分の中にしかなくて、

外にはありません。

 

だからこそ、振り返っても何もない。

 

でも、なんだかもうすぐスタートラインに立てるような気がしています。

 

 

いつも悩んでいること〜自発的な行動とスキルパス〜

教育的な立場にたって、子供たちと接するとき、

いつも悩んでいることがあります。

 

それは、

彼らの自発的な行動をどれだけ待つか、

というところです。

 

ベストは、彼らが、自分で考え、

自分で必要なものを見つけ、獲得していくことです。

最近だと、アクティブラーニングと言われていますね。

※アクティブラーニングっていう言葉を使いたがる人は、

その方の視野を疑った方がいいと思います。

 

そんなことができる子は、ほぼいないですね。

 

特に難しいのは、自分で必要なものを見つける、という段階。

 

一度、山に登れば、何が必要かわかるから、必要なものを得ることができます。

でも彼らは、まだ山に登ったこともなくて、ちゃんと見たこともないのです。

そんな状況で自分で必要なものを見つけるというのは、不可能でしょう。

 

そこで、私たちのような教育的立場の人間が行わないといけないのが、

スキルパスの整備です。

※スキルパス:様々な経験を積みながら、後々必要になるであろう知識や能力を高めていく順序

 

ちなみに学校で行われているのは、スキルパスのほんの一部、「後々必要になるであろう知識を高めていく順序」が整備されている場所です。

 

でも、重要なのは、「様々な経験を積みながら」というところ。

それで初めて、必要だと思うものと、後々必要になると「言われている」ものを、

リンクさせながら学ぶことができるのです。

 

ただ、スキルパスの整備をやりすぎると彼らの自発性を削ぐことになる。。。

次はこれ、次はこれ、はい次はこれって、なるとダメですからね。

 

そのバランスにいつも悩みます。

保育園のサツマイモ植えを行いました。

今年新しくできた保育園のサツマイモ植えを行いました。

 

0歳〜2歳までの保育園で、

今回お手伝いしてくれたのが、2歳の5人。

 

苗に土を被せるのは、

「お布団を被せてくださーい」あるいは、

「ブルドーザーでブーンしてください〜い」が効果的。

 

久しぶりに小さなこと遊びました。

可愛かったー

 

数年前よく遊んでいたそれくらいの子達は、もう小学生。

時が経ったのを感じます。

 

 

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学生企画実行部の最近 5月

5月の前半に、福津市住みよいまちづくり推進企画へのプレゼンが終わり、

無事企画が通りました。

 

今は、内容を詰める人と、チラシを作る人に分かれて、

準備を進めております。

 

内容の詰めは、

メインコンテンツの作成→全体の構築→細部の構築→全体の再構築

という順序で行っておりまして、今日やっと細部の構築に入って行けたところです。

 

イベント作るときに、メインコンテンツが出来て、全体のイメージが出来るようになった段階で、細部に向かうのは基本的に間違いです。

メインコンテンツが出来た後、すぐに細部に向かう人って、

ひたすらアイデアを出すことに注力しちゃってるんですよね。

そうなると、「重箱の隅作り」をがんばっちゃうことになっちゃって、

イベント全体が薄っぺらくなります。

 

イデアが活躍するのは、メインコンテンツを作成するところまで。

ここまでに、「やりたいこと」を詰め込む必要があります。

 

その後は、「やりたいこと」ではなくて、正確に「できること」で組み上げていく必要があります。

 

 内容5割くらいで一旦全体を組み上げて、その上で推測できるイベント当日の時間や、当日までに使える時間を踏まえ、8割程度まで細部を詰め、

最後に全体を再構築します。

 

とはいえ、

 言葉で言っても紙に書いても、まだ理解できないので、

やって見せながら、やってみる、ということをやってみています。(笑)

 

 チラシ作りの方は、

チラシを作るときに「気にするレベル」を最初にちょっと上げて、

作成しています。

 

順番は、

掲載情報の整理→アウトラインの作成→内容の流し込み→不足している情報の検討→調整→仕上げ

今は、不足している情報の検討に入りかけているところです。

イラレを使っているので、パソコン自体も初めての中学生は、悪戦苦闘しております。

 

明日から一週間試験期間に入るので、作業は中断ですが、6月半ばまでには出来上がると思われます。

 

通常の部活は、一週間前から部活が休みですが、

うちは、活動を試験勉強に切り替えて休みにはしません。

必要最低限の学習にコミットすることも、部活動の役割だと思うからです。

 

試験のときに休みになる部活は、勉強と部活は関係してないですよって言ってるのと同義。

学校で部活動をするのであれば、そこの関係を途絶えさせてはいけません。

 

 

 

 

 

渡にホタルが戻ってきました。

さっきランニングで渡の畑を通過したところ、

フッと光るのが見えて、よくよく見るとホタルでした。

 

生まれてこのかた、渡で見たこともなければ、

ホタルがいるという話も聞いたことがありませんでした。

 

嬉しい限りです。

たぶん農家さんが減ってきたことが効いてるのでしょう。

 

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そして、今日は、嬉しかったので、お祝いビールです。

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学生の役割のなさ

中学生(本当は中高生だけど)を対象として部活動を初めてつくづく思うのが、

タイトルにした、社会における学生の役割のなさ、についてです。

 

中学生と言えば、義務教育があとたった3年で終わる時期。

 

役割もなければ、役割につながっていくような「緩やかな階段」すら存在していません。

 

さらに、中学校に入ると部活動に入らないといけないという風習があります。

しかもスポーツばかりで、とても少ない選択肢の中から選ばないといけません。

授業中も社会から切り離され、放課後も切り離されているわけです。

たしかに結果論として、スポーツの部活で培われるものを主張することはできます。体力、忍耐力、協調性など。

でもそれって、スポーツじゃなくても培えるんですよね。

しかも、たぶんスポーツで培わないほうが、実用的なんですよね。

 

私たちは、経験から当たり前に感じていますが

学校の部活動でスポーツをする正当性って、実は存在してないんですよね。

むしろ、それらは場違いで、「なんで学校でそんなことやってんの?しかもそれで先生忙しそうじゃん。」というのが普通なんです。

たまに、部活動見たくて先生になっている人もいる、と言う話を聞きますが、

おい、やめてくれ、と思ってしまいます。

 

※「私は、スポーツ部活動で今の自分がある!」と反論したくなる方もいらっしゃると思いますが、それはそれです。それを否定しているわけじゃありません。ただ、そういう話をしてるんじゃないということだけはご理解ください。

 

さらに、義務教育最後の年である中学校三年生に焦点を当ててみると、

社会に出た時のためのプレテストは一切なく、

大半が何の役にも立たない受験に重きが置かれているのです。

 

私たちが作ってしまった子供達の不幸の一つがこの教育だと思います。

 

部活動は、すべて民間に移し(スポーツの場をなくす訳じゃない)、

学校で放課後も子供達を拘束するなら、

それは社会との接点の時間にすべきだと思います。とくに中学校からは。

 

また、その社会との接点作りは、学校ができないこと(部分)を積極的に認め、

地域に頼ることを行うべきだと思います。

 

さらに、外部(地域)との連携を効率化するため、小学校から中学校までの義務教育期間中は学年教諭の変更はなしにし、先生の他校への移動も原則なしにすべきです。

シュタイナー教育はそうらしいけど、シュタイナー信者ではありません。