津屋崎・毎日の大切なこと

津屋崎で日々暮らすなかで、耳にし、目にし、口にする、いろんなモノゴトを、自分の軸を持って綴ります。

ポンっと置かれた。

ポンっと置かれた。

 

という言葉が好きだ。

 

それ以上でもなく、それ以下でもなく。

ただそこにある感じ。

 

そして、三粒の種を通して、自分がどうありたいか、

というのも、この言葉が当てはまる。

 

感覚の話ではあるけれど、

最近ちょっとずつ言葉になってきた。

 

拡がろうともせず、縮まろうともせず、

媚びず、流されず、

不要とは対立していない必要なものとして、

ただそこに在って、

人を善でも悪でもないところで、

汲み取る場所?みたいな。

 

誰かが目的地としてくるわけでなく

すれ違う程度の人が、ハッとするような。

誰かの居場所であって、その居場所を問うような。

立っている場所を問うような。

 

なんかそんな感じのやーつに、

ワタシハナリタイ。笑

心から

心から、

 

という感情に、最近よく触れます。

 

きっかけはわかっているけれど、とても不思議な感覚です。

 

心から悩んで、何もないように思えるところから何かを探そうとして、

深ーく、深ーく潜って、気付くんです。

 

その潜っている空間は、探していた何かに満たされていたんだって。

そして、一番奥底から、綺麗な何かが脈々と湧き上がっているんだって。

 

私は、

それに気がついた、心からの何かに触れた時、

涙が溢れ出します。

悲しくもなく、嬉しくもなく、ただ溢れだします。

 

歳のせいもあるかもしれません。

 

そんなとき、その何かをもっと汲み取ってあげたくなるんです。

 

見えるものと見えないもの

ポンティが言っていました。

 

見えるものが見えないものとして、見えるものを見えさせる。

って。

 

中秋の名月の今日。

その見えるものは、雲、真っ只中だ。

 

何もみえない。

 

ただ、今日において、見えることと見えないことは、本来重要ではない。

 

お月見とは、 

見えるものを見えないものとして、見えるものを見えさせるようにするのである。

 

きっと愛でるとはそういうことである。

 

確実にポンティが言った意味とは違うけど。

 

なかなかいい夜だ。

豆を挽き、湯を沸かし、少し冷まして、フレンチプレスに注いで、

少し濃く出し、苦いコーヒーで、団子を食べる。

そして、相も変わらず、僕の愛機は使い物にならない。

 

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蚊は多いし、団子に虫が飛んでくるけど、

ランタンの音と、虫の声が聞こえて、

僕は基本的にこれだけで十分だ。

3年が経ちました。

三粒の種が動き始めて3年が経ちました。

 

早いものです。

 

たくさんのご迷惑をおかけしながら、

たくさんの愛情をいただき、

歩んできました。

 

振り返って、

僕たちは何をしてきたんだろう。

何を成したんだろう。

 

なんて考えてしまいます。

 

でも、まだたった3年。

 

「何かを成せているのかもしれない」と思ってしまうほどに、

まだまだ未熟です。

 

この三年間、

お叱りを受けることもたくさんあったし、

喜んでいただけることもたくさんあったし、

お野菜を取ってくださっている方をお叱りすることもままありました。笑

 

そんな中で、今思うのは、大切に出来なかったことへの後悔の念です。

大切に出来なかったことを、

どれが一つと数えられる訳ではないけれど、一つ一つに謝っていきたい。

そんな風に思います。

 

だからこそなのかもしれません。

 

僕たちの想いに共感して、今もお付き合いしてくださってる方への、

感謝の気持ちが、言葉になりません。

本当にありがとうございます。

 

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3年間の変化に関する、正直な話をします。

 

僕は社会を、人を、下に見ていました。

社会という枠組みの中でしか物事を考えず、

人との関係でしか物事を考えず、

もっと多様で多次元な物事の広がりに目を向けられない社会を、人を、

下に見ていました。

 

きっと言動の節々に、

あるいは全てにそれが出ていたのではないかと思います。

 

申し訳なかった。

 

でも、3年の中で、本当に少しずつ少しづつ変わっていったように思います。

もしかしたら変わったのではなくて、捉え方が変わっただけなのかもしれません。

 

自分が大切に思っていることと、人が大切に思っていることは、

どうしてこんなに違うんだ。

自分が必要ないと思っていることと、人が必要ないって思っていることは、

どうしてこんなに違うんだ。

 

違うんだ、違うんだ、違うんだ。

ずっとそれに憤っていました。

 

それにちゃんと向き合えたのが、一年ちょっと前くらいから。

 

日々考え、禅の勉強をしてみたり、アッシジまで行ってみたりしました。

 

別にどこかに、「これだー」って思えるものがあった訳ではないのですが、

いつしか「違うんじゃない、同じなんだ」と思うようになってきました。

 

みんな何かを大切にしていて、一生懸命で。

 

きっと大きく変わり始めたのは、今年の4月。

ある不登校の男の子との出会いがきっかけだったと思います。

 

彼の「弱さと恐怖と正しさ」と、僕の「我と正しさ」が、

触れ合った時に、彼のそれを受け入れなければ、

彼の人生を奪ってしまう、もしくは崩してしまう、あるいは大切にできない、

という感覚に襲われました。

本当にそれからです。捉え方が変わり始めたのは。

 

そして、その感覚を対象としてもっと広く持つようになったのは、

ここ数週間の不思議な出来事のおかげです。

 

その違い、あるいはあらゆる違いは、

本当は違わなくて、

深いところで受け入れることができるんだ、と今は思います。

 

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「三粒の種」

 

一粒は、空を飛ぶ鳥のため

一粒は、地を這う虫のため

残りの一粒は、人のため

 

僕は最初この言葉に「自然の中に間借りする人が広い視野を持って、与えながら生きていく必要がある」といった意味を、感じていたし、そんな意味で使っていました。

 

でも、

この言葉はきっと「いろんな存在を受け入れて、愛する」言葉なのだと思うようになりました。

 

この言葉上の違いも、結局は同じことをいってるんだと思うんですけどね。笑

 

これからもこの言葉を大切にしながら、

付き合ってくださるみなさんを、大切にしながら、後悔しながら、

次に出会うヒト・モノ・コトを、より一層大切にできるように、

精進していこうと思います。

 

今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

3年が過ぎ、4年目に入った、三粒の種からのご挨拶でした。

百姓と種まき

百姓

僕を自然好きにしたのは、叔父である。

畑での遊び方、カエルの取り方、気をつけないといけない場所、蛇の見分け方、ワタリガニの取り方、カブトムシの取り方、魚の釣り方、網の作り方、正月用の箸の作り方、かたかた。

 

手がでかくて、ゴツゴツしていて、強く、空手をしていて、

ジャッキーチェンに似ていて、酒好きで、コミュニケーションが下手くそで、

苦手だったけど、大好きだった。

 

そんな大好きだった叔父が、酔っ払いながら教えてくれたこと。

 

「おいしゃんは、百姓やろうが。百姓って漢字はならったか?百の女が生まれるって書こうが、何事も女がおらな生まれんかろうが。やけん百姓っていうのはな、たくさんのものを生んでいく仕事なんぞ」

 

たぶん由来とか語源を調べれば、「間違い」なのかもしれないけれど、

僕はこれは正しいと思っている。

 

そして、今日は1日種をまいていた。気が付いたら夕方だった。

 

野良仕事のなかで、種まきが一番好きだ。

準備に一番手がかかり、種をまくのに膨大な集中力を使うからだ。

たぶんもっともエネルギーを要する作業だと思う。

 

野菜の出来は、種まきが終わった時点で、7割がた決まっている。

8割がたかも。

 

種をまきながらいろんなことに想いをはせる。

 

どこかの家庭で、あるいはどこかのレストランで、

料理が20分で出来た。

 

それは嘘だ。

 

じゃがいもひとつとっても4ヶ月、玉ねぎは8ヶ月、人参だって5ヶ月

ラディッシュだって1ヶ月かかる。

 

そして、そのひとつひとつには人の手と大地の力が添えられていて、

こうやって4ヶ月なり、8ヶ月で、野菜を作れるようになるために、

時間だったり知恵だったり、たくさんの蓄積が必要だ。

 

僕がまいたこの種が育って誰かの口に入る時、

その人はそれに想いを馳せてくれるだろうか。

 

それはわからない。

 

だから、まずは僕たちが想おう。

今日まいたこの種が、

大切なあの人の体を作り人生を作るのだと。

そして、たくさんのものを、生んでいくのだと。

 

 

P.S.

肥料が風に舞い、目にたくさん入った。

これで目が肥えたと思う。

 

※解説:野良ジョークの一つ。

肥料を畑にまくと、畑が肥えるが、目に入ったので、目が肥えたの意。

渾身のジョークである。

綺麗と嘘

LRに入っている写真を整理していた。

 

いろんな写真が出てくる。

中にはドキッとするような写真、えっとなるような写真、懐かしくなるような写真もある。

 

でも、目に留まるのは綺麗な写真。

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綺麗なものを見ると、嘘をつけなくなる。

自分に。

 

気にしないように自分に嘘をついているけれど、

嘘をつけなくなる。

 

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逆さまにしていることが、暴露る。

 

弱い。

 

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高校生対象の宿泊参加型のプログラムに、

うちの中学生の参加許可がもらえた。

 

それを子供たちに伝えると、

一人の女の子は、即答で参加すると答えてくれた。

 

すばらしい行動力というか、飛び込む力だと思った。

 

 

だけど、

数日後、彼女の参加は見直されて、見学での参加となった。

 

どうやら保護者の不安を、彼女が受け取ったようだ。

彼女は、最初、その内容に心躍らせたが、

親がそれを制止した形になる。

 

「親が、子供の好奇心を阻害してどうするんですか!」

「これからもそうやって機会を奪っていくんですか!」

 

と言いたくなってしまった。これが僕の我だ。

 

でも、

保護者の不安は、精一杯の愛情の形。

その善悪の判断をする権利は、誰にもない。

 

だから、僕は「我」をぐっと飲み込んで、

親の不安もはねのけて、彼女が飛び出すのを待つことにした。

 

我を通すことにも、他を尊重することにも、

恐怖が付きまとう。

 

僕の判断は、それでよかったんだろうか。

たまに誰かに聞きたくなる。