言葉にされていないことを言葉にする
言葉にされた部分で行動することは簡単。
人が安心しているときは、おおむねこの中にいる。
一方で、
言葉にされていない何かを言葉にすることは難しい。
言葉にされていない何かを言葉にするためには、
できる限りシンプルなシステムの中に、種を植え付け、
時間をかけるしかない。
言動の積み重ね、雰囲気の積み重ね、多少のぶち壊し
が必要なのである。
おそらくは、宗教的に祈りに近い所作となる。
学校の先生はすごい
地域のお祭りで子ども山笠の準備をしています。
子ども山笠は、50年ほど前になくなっていて、
3年前に学校の授業の中で地域と連携し復活しました。
かなり本格的なものとして。
これにはいろいろと物語がありますが、割愛。
学校が復活させてくれた子ども山笠が、
その翌年から「よっちゃん祭」という地域のお祭りの中で、
町の中を駆け抜けるようになりました。
今年は、それも3回目で、
復活させてくれた学年が、6年生になり、
子ども山笠に関わる最後の機会なんですね。
ですので、「最後だから自分たちのものとして、実行委員やらないか?」と募集したところ、なんと17名もの実行委員が集まりました。
ちなみに、クバーラ大会という結構人気なスポーツの実行委員を
募集したところ、小学生からの応募は1名でした。笑
実行委員という立場には、向き不向きもあるので、
学年全体の10%以上が参加していることはすごいことだと思います。
たしかに、子ども山笠の復活は「すごかった」し、
今でも小学校の文化祭では、3年生行事ながら全体の中でもトップクラスのコンテンツになっています。
で、本題です。
僕は、今、
「子ども山笠を作り上げる」という意志を持った17名をみているので、
かなり厳選されていて、バイタリティーの高い状態の集団を相手にしていることになります。
実際、彼らのバイタリティーは想像を超えていて、
小学生の主体性を大事にするという点で行くと、
僕のコミットは7で、子どもたちの自由度は3くらいだろうとみていました。
でも蓋を開けてみると、僕のコミットは4で、彼らの自由度は6で成り立っています。
当然、彼らの経験から、集中力の持続時間に短さはありますが、
毎回の会議1時間の中で、どんどん進んでいきます。
ただそれでも、僕の中で引っかかる心の動きというのがあります。
実行委員形式で行っていますが17名もいると、
数名、低いパフォーマンスを示したとしても、成り立ってしまうんですね。
その時に、「まあいいか」と思ってしまいそうになるんです。
その低いパフォーマンスを示した子の、自己有用感を損なわないために、
その子を輪の中心に据え、動機づけするための選択肢はいくつかあります。
でも、「まあいいか、この差を放っておいても組織としてはそれがプラスに働くこともある」というのがよぎるんですね。
何のためにこの実行委員会を設けているのか、
子ども山笠自体のクオリティーを高くすることが大事なのか、
実行委員に参加してくれている子たちの高い自己有用感の方が大事なのか、
下に合わせれば、高いバイタリティーの子は全力を出す機会を失う、
上に合わせれば、下の子は虐げられる、
そんな葛藤がめぐるんですよね。
まあこれは葛藤しながらベターでやっていくことしか出来なくて、
ベストな答えはないんですけどね。
ただ、これは、
そもそも自分で立候補してきたバイタリティーの高い17名を相手に起こっていることなんですよね。
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学校の先生って、
いつも常に倍以上の子どもを相手にします。
しかも、立候補とかじゃなく、
ただそこに行かないといけないから来ている子たちを相手にしています。
だから、パフォーマンスの低い子なんてたくさんいますよね。
そもそも「やりたい」という宣言すらしていない子がほとんどなわけだから。
頑張る意志のない人を頑張らせることは難しいし、
しかも、「この押しつけは健全なものなのか?」という葛藤は常につきまといます。
さらに、4−5人位でできることですら、常に「みんな=30人ー40人」がそれぞれ自己有用感を感じながら活動できるように、と試行錯誤しないといけません。
それを、毎日、毎年、です。その期間、ほぼ葛藤です。
そりゃーK先生も、クバーラ大会に二日酔いで遅刻しますよ。
先生というのは、そこに今日もいてくれるだけで、
すごいことをしてくれてるんだなと思います。
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昨今、メソッドやセオリーに頼りたがる方々をたくさん見ますし、
ささやかな人数の意識高い系の子ども集めて実施した活動の成果を、
「教育とはこうあるべきだ」的に声たかだかに仰る方々もたくさん見ます。
それはそれでハイヤーエデュケーションとしていいし、
必要なことなんだけど、
その活動の当事者以外の我々のような地域のおっさん、おばさんは、
「ほうほう、そんなことをやっている人もいるんだな」と思う程度にしておいて、
まずは、毎日、多くの子供達と向き合う先生への、
深い理解が先だし、
そこへの協力が最優先だと思うんですよね。
一度見たら、その後は見ていない
小さいころから、人の顔と名前を覚えるのがあまり得意ではない。
顔を覚えるのに全神経を注いでいて、名前を言われたときにそれに集中してないからだ。
その代わり、人の顔というか形状とか仕草は、すごく覚えがいい。
ずっと人の認識に違和感があって、
最初に見て、そのあとはおそらく認証作業しか行われていないんじゃないかと、
つまり、見たことがあるか、ないか。という作業しかやってないんじゃないかと。
じゃないのかなー、と思っていたら、最近ナショジオかワイアードで記事がでていた。
その人がその人である部分って、すごく少ない。
構造主義的に、「差異」を見出していくと、
人は限りなく観念的に細くなる。
本質的に表現しようとすればするほど、細くなる。
■
事実を忘れ、欲求に従い、幻想を抱く。
そこに安住がないことを、得られるものがないことをわかっていながら、
欲求に従い、幻想を抱く。
あの侮蔑と立ち振る舞いを忘れ、近づこうとしてしまう。
学習というのは本当に難しい。
どうしようもない。
世界というのを美しくしてしまっていることがある。
実際は、汚点の排除というのを無意識に行っている。
「煙草の吸殻を車の窓から投げ捨てる」
この「類」が、世界には一定数存在していることを排除しているのだ。
平気で人を殺す、平気で子どもを虐待する、平気で人の時間を搾取する、こういった類だ。
ただ、これに気が付けば「それをなぜ悪いといえるのか?」という思考がスタートし、善悪の対岸に立てるのだ。
世界というのは美しくもなければ汚くもない。
善でもなければ、悪でもない。
世界というのはそもそも不在である。ただ確実にその不在は存在しているのだ。
つまり世界は点である。存在しているが存在しえないのである。
2019年9月から1年ちょっと津屋崎を不在にします & 協賛のお願い。
2019年9月から、すこし社会を置いて散歩にでかけようと思います。
ざっくり説明すると、
目的は、研修
一般的な見た目は、旅行
気分は、散歩
を1年間してきます。
詳細は以下↓
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現在は、
三粒の種という農業と教育を行っている事業を運営しており、
「いつでもそこにある当たり前をとらえ表現し続ける」というミッションの元活動しています。この活動の中で、必要な期間として今回の旅を企画しております。
ちょっとさかのぼってお伝えしますと。
僕は、大学・大学院で考古学という歴史系の学問に没頭し、
どのように社会が拡大し複雑になっていくのか?という分野です。
知っての通り弥生時代といえば、稲作・定住がはじまる時代です。
この時代では、
食べることと住むことが安定したため、人口の爆発的な増加というのが起こりました。
きっと当時の人々は「幸せ」だったろうと思います。
子どもは死なないし、一族は増えていきますしね。
一方で、この時代は、争いが増えていく時代でもあります。
その証拠として武器の量が爆発的に増えるのもこの時代の特徴です。
争いが増えた原因は、すごくわかりやすい言葉を使うと、
「自分たちの領土では身内の人口を養えなくなり、
隣の領土に手を出し始めたから」と考えられています。
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難しい部分は横においておいて、
僕が弥生時代の研究を通してわかったことは、
この時代は「自分たちの幸せをキープするために、隣の幸せを搾取し始めた」時代であったということでした。
ここが僕の活動の出発点といえます。
それを感じると同時に、弥生時代から2500年ほどが経った今、
ほとんど同じ構造で世界は動いていると思いました。
しかも、弱い方が搾取され、格差が広がっていくことを、「問題」だと感じている。2500年もかけてなぜ解決できないのか。
僕は、考古学者(当時)として、
この2500年の歩みとは違うことをしたいと強く思うようになりました。
搾取的な歴史を学ぶ一方で、
人類史のほとんどが、贈与経済で回っていたということも学びました。
いわゆる私たちが未開や野蛮と言っていた社会では、「与える」ことを中心として経済が回っていました。
「私のものである」という所有観念も弱く、「今手元にあるものは与えられたものであり、みんなの共有物である」というようなマインドの元、「交換」が行われていました。これが僕の今後を方向付ける学びとなりました。
僕は、この「与えることだけで経済は回るという事実」を学問分野から社会に対して言及すべく大学院の道に進みました。
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ですが、進学後まもなく本当にまもなく「このまま論文にかじりつくよりも、自分で行動したい」という思いが膨らみ、大学院を退学して(なので九大に通っていたのは3か月くらい)起業しました。
とはいえ、何をすればいいのか、どうすればいいのか、などは全く分からないし、誰も知らないので、2年ほど模索する期間があり、25歳の時に「三粒の種」という合同会社を設立するに至りました。これが今現在行っている農業と教育の仕事です。
(収益規模が小さいので、法人から個人事業主に戻しましたが)
「三粒の種」とは、「一粒は地を這う虫のため、一粒は空を飛ぶ鳥のため、残りの一粒は人のため」という農業のことわざです。
この言葉をよりどころにしながら、「与えること」を念頭に「自分たちのため」でもなく「人のため」でもなく、悶々と模索してきました。
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なかなか言語での説明は難しいのですが、
農業では、手の届く範囲で「あの人が作ってくれているから丁寧に食べる」・「あの人が食べてくれているから丁寧に作る」という関係を、
野菜という不可欠な食べ物の流通の中で生むために活動してきました。
この手元にある野菜は、あの農家さんの日々の営みの結果であり、自然の恩恵を受けて出来上がっていること、
この野菜が食べてもらえるということは、労働がお金になるということだけでなく、あの人の、あの子の体となり、人生を、未来を形作っていくものである
と、想い合えるようにデザインしてきました。
このような些細な部分のマインドの変化が、50年、100年かけて、物事の捉え方を変えていくのではないかと期待しています。
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教育業は、この農業で得た利益によって実施しております。
僕自身がすべき「与える」行為であるし、本来地域の大人が担うべき役割の一つと思い活動してきました。
「在りたい姿を描くこと」「答えは自分で創ること」を念頭に置きながら、
子どもたちがやりたいこと、やるべきだと思っていることを、彼らの力で実行できるようにサポートすることが主な教育内容です。
ここ3年は「学生企画実行部」という中学校の学外の部活動を立ち上げ、
さまざまな活動を行ってきました。
スタート時点で3名の中学1年生が集まりました。
得体も知れない何をするかもわからない(笑)活動に、
3名も集まったことに驚きましたが、彼らはとても多くのことを3年間で成し遂げました。
彼らの活動に触発され仲間が増え、
自分たちで市役所から補助金をとり、
3年間で延べ300人を超える地域の方々の交流を生み、
新しい地域清掃ゲームを発明したりしています。
この活動中で僕が一番使った言葉は、
「それは僕が決めることじゃないですね」でした。
既に6年間の義務教育を受けている子どもたちは、
大事なことは大人が決める、あるいは誰かによって決められていると、刷り込まれている現状が見えてきました。
それを打破しながら彼らの力をつぶさないことに悩んだ三年間でした。
彼らについてはまだまだ書きたいことがありますが、この辺にしておきます。
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このような活動を続けて8年目になりました。
さらに、地域からの信頼も得ることができ、様々な役割を与えていただけるようなってきました。
本当に、様々な役割を。
この年ではなかなかできない経験をさせていただいております。
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ここから、
1年ちょっと不在にするきっかけの話になります。
僕は、このような立場、あるいは環境になっていくなかで、
「地域社会から離れ、客観的な環境の元で深く考える時間が欲しくなりました。」
自分がやっている仕事自体、5年以上前に思いついたもの。それを続けることは本当に必要なことなのか。本質的なのか。
自分の意思決定は、どこまで客観的なのか、どれだけ未来を見据えられているのか。十分に子どもたちに対して責任を取れるだけの状態なのか。
役割は与えられるが、30歳が考えていること見ていることと、最終的な意思決定世代が考えていることには大きな差があり、それをどのように捉えるのか。
その他の近視眼的なものとの差異をどのように折り合いをつけていくのか。
正直なところ、僕の人生をかけて培ってきたものだけでは足りない気がしてきました、しかも今の環境で得られるものでは、不足しているものを補える気がしません。。。
何といえばいいのかなかなか言葉が見つかりませんが、
これからの役割を果たすための「学び「足し」」というのが近いような気がします。
社会に出ると、走りながら学ぶということが必要とされます。
それが「普通」
ですが、その学びには大きなバイアスがかかっているんですね。
それは経済であるとか、慣習であるとか、「バイアスがかかっている」と気が付かない類のものだと思うんですね。
この1年間の不在は、そのバイアスからも客観的な環境に身を置こうと考えております。
10年に一度くらいは、大人になっても手放しに学べる機会というのは必要だと考えています。この期間はその一回目。
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□この期間に得たいこと
この期間に得たいことは、大きく3つあります。
一つ目は、
地域社会という利害関係の塊のような環境から離れ、
客観的に考られる時間=独りの時間を得ること
二つ目は、
他国の文化に触れて自分の価値観にリセットをかけること
三つ目は、
自然の中にいる時間を常態として、自然的美しさを思考の中心に据えること
以上三つを通して客観的に深く考えることを行っていきます。
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実際に、この期間に何をやるのか、というと、
昔、逍遥学派というのがあったんですね。
これはてくてく散歩しながら哲学した学派なんですが、
僕もてくてく歩きながら考え事をしようと思っています。
日本にいたらいつもと環境があまり変わらないので、外に出ます。
主に、ネパール、トルコからギリシャ、スペイン、チリ、アルゼンチン、アメリカ(PCT、アラスカ)全部で8000kmくらい歩き続けます。
誰かが言ってましたが、歩き続けることは、禅に近いところがあるそうです。
これからも生きるということに責任を持てるように、必要な時間を過ごそうと思います。
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□この旅の設え
・期間:1年間
・行き先:(変更の可能性あり)
ネパール(2ヶ月)
アンナプルナトレッキング
エベレストトレッキング
トルコ・ギリシャ(1ヶ月)
タレースの活動した土地イズミールからエーゲ海を渡って、ギリシャへ
スペイン(2ヶ月)、
ピレネー山脈を超えてサンティアゴ・デ・コンポステーラまで
チリ(3ヶ月)、
route of parks of patagonia
南部から北上、プエルモントまで
アルゼンチン(1ヶ月)
Aconkagua(アコンカグア)、パイネサーキット、
アメリカ(PCT、アラスカ)(3ヶ月)
ジョン・ミューア・トレイル、デナリ国立公園、グレイシャーベイ
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・連絡:FB、ライン、メール等、基本的に閉鎖します。
期間中は、Boutonというお店から連絡をとることができます。
※電波のないところを歩いていることが多いので、すぐに連絡がつくかどうかは運次第です。笑
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・アウトプットの日の設定:
指定した場所(〇〇のカフェなど)で待ち合わせ、
2-3日かけて一緒に話す時間を設けようと思っています。
定員:4名(自分含む)
11月 ギリシャ
2月 アルゼンチン
5月 アメリカ
の3回、アウトプットの日を設定します。
言語は、日本語か英語。
参加者は、後日募集します。
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あとは、切実な問題として、
お金儲けをしてこなかったので、お金が若干足りません。笑
不躾ながら協賛金をいただくことでそれを補おうと思います。
ちなみに、
今回の旅は現在の計画で200万円ほど掛かりそうです。
帰ってきてからの資金を少し残して、
130万円程度は自己資金でまかなう予定です。
残りの70万円を協賛(スポンサー)という形で調達したいと思います。
昨今クラウドファンディングというのが流行っておりますが、
あの仕組みを活用すると、協賛頂いたお金の15%以上が手数料でもっていかれますし、正直なところあまりいい仕組みと思っていないので活用いたしません。
ということで、以下に協賛額とそれに対応したお礼を考えましたので、ご検討いただけますと幸いです。
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□ 協賛のお願い詳細
協賛金 10,000円
・お礼:お好きな写真 A4印刷 1枚 簡単な額縁付き
協賛金 50,000円
お礼:お好きな国のお土産 1カ国
お好きな写真 5枚 A4印刷 簡単な額縁付き
協賛金 100,000円
お礼:お好きな国のお土産 3カ国分
お好きな写真 5枚 A4印刷 簡単な額縁付き
ゆっくりコーヒーを淹れて土産話
協賛金 500,000円
お礼:旅の写真付きサマリー(旅の中で見たこと考えたことのまとめ本みたいなもの)
協賛金 2,400,000円コース
・お礼:帰国後、指定の役割を1年間果たします。※条件内容等、要相談
写真は、整理完了後お知らせし、選んでいただきます。
ちなみに、僕はこんな写真を撮ります。
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□協賛の方法
振込先
銀行:ゆうちょ銀行
店名:七四八
店番:748
口座番号:6496990
連絡先
nobuki.corner@gmail.com
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失敗
誰しもがそうだと思いますが、
やはり一番難しいのは、
人付き合い。
口だけで搾取的な人についつい引っかかる。
精神的に盲目になり、不必要性に気が付けないこともしばしば。