教養と経験
これは、愚痴です。
普遍性にかける、私の愚痴です。
思考の結果出てくる発想、あるいはもっと単純に言葉というのは、
その人の基盤を表している。
私は、よくその基盤の希薄さに苛立ちを覚える。
すべての人の発想や言葉は、平等ではない。
子供の意見と、大人の意見が、
法上の区分によってではなく、
価値に違いがあることに、
その不平等の存在が現れていると言える。
そうではないこともあるが、
それはその存在の否定にはならない。
ただ、その不平等の中で、
子供の意見に価値があることはまれだが、
大人の意見に価値がないことは、頻繁にある。
驚くほど頻繁に。
これは、大人として恥ずべきことだ。
このような出来事の原因は、
表題である、
教養と経験にある。
子供の意見が重要ではないのも、ここに原因があると言えるだろう。
まず、用語として、
教養とは?
㋐学問、幅広い知識、精神の修養などを通して得られる創造的活力や心の豊かさ、物事に対する理解力。また、その手段としての学問・芸術・宗教などの精神活動。
㋑社会生活を営む上で必要な文化に関する広い知識。
経験とは?
実際に見たり、聞いたり、行ったりすること。また、それによって得られた知識や技能など
である。
読んでわかるように、教養とは雑学ではないし、
偏差値で表現されるものでもない。
物知りであるかどうかでもない。
経験は、読んだ通りの解釈で問題ない。
会議などで、本質を捉えられない方は、
たいてい教養がない。
意見に深みがなく、表層的な話ししかしない方、
客観的に物事を捉えられない方、話の抽象度、具体度を把握できない方は、
教養がない。
なぜそうなるのか?
それは、頭の中の材料が足りてないからである。
思考のパターンから、事例まで、足りてないのである。
それらがないため、0から考えることになる上に、組み立てることができないのである。頭の中で、俯瞰する余裕が作れないのである。
かわいそうに脳みそが、労働を搾取される賃労働者となっているのだ。
次に経験だが、私は教養>経験の価値観を持っている。
経験とはもろい。
あまりにも特殊で、偶発的で、具体的だからだ。
さらに、人生80年。どんなに長い経験でも、これを超えることはまれだ。
人類史500万年のうちのたった80年である。なんと儚い。
(私たちはそれしか持ち得ないという、幻想的なアドバンテージがあるのは否めないが。。。)
またこれがあることによって、その偶発的な出来事を絶対的なものと勘違いし、
他人に押し付けることがしばしばある。
まったく迷惑な話であるし、特定の経験が、
他人にも有意義であると、確証を得ることはできない。
総じて、私は、経験の有無にさほどの重要性はないと考えている。
どのような経験も、主体が代替可能であるし、不可能である場合は、
あまりにも特殊なため他に対して関与が皆無と言えるからだ。
教養がない方は、経験で語ろうとする。そしてそれを押し付ける。
昨今の大人はその傾向にある。特に戦後を生きて来た世代。
私の人生も決して長くはないが、教養のある方に出会ったのはほんの数名である。
ついつい、「教養がないことは悪いことではないけど」と普段言葉を濁してしまうが、
それは、悪いことだと言ってしまいたい。
その言動の稚拙さと発想の狭さを、、、
教養がなく経験で語ることは、愚かである。
大人の無知は、罪である。