津屋崎・毎日の大切なこと

津屋崎で日々暮らすなかで、耳にし、目にし、口にする、いろんなモノゴトを、自分の軸を持って綴ります。

ありがとうの会を開催しました。

6月25日(土)に、

今年の「ありがとうの会」を開催いたしました。

 

ありがとうの会は、

三粒の種でお野菜を取ってくださっている方と、

作ってくださっている方が、

互いにお礼を言い合うという会です。

 

楽しいから行くわけでもなく、

得するから行くわけでもなく、

 

ただ、お礼を言うためだけに行く会です。

 

「ただそれだけ」、

 

だけれど、

 

それができる環境と、関係は、

今ある社会の多くの問題を解決し、

これからのより良い未来を形づくるものと思っています。

 

私がやっていることは、「農業のモデル」だけど、

他の人が行うあらゆる交換に、必要な環境と関係だとも思っています。

 

日頃の感謝とともに、

今回参加してくれた、その価値に気づいてくれた方々に感謝です。

 

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宅配お休みのお知らせ!

宅配お休みのお知らせ

 

7月頭のメルマガに記載しておりました通り、

7月20日(水)のお届けは、 津屋崎祇園山笠参加で、

準備ができないため、 お休みいたします。

 

また、8月いっぱいは、お野菜が少ない上に傷みやすいため、お休みさせていただきます。

 

7月27日(水)はお届けいたします!

ご理解のほど、宜しくお願い致します。

ALを実践している側から見る18歳選挙権。

僕は、「現状」18歳の一票に意味はないと思っています。

※彼らが無力でダメだ!ということではなくて。

 

なぜなら、彼らは、社会において、まだ役割を持ったことがないからです。

そして、教育の仕組みが、そのような意味において、何も整備されていないからです

 

例えば、バスケ部に所属していたとします。

代替わりでキャプテンを決めないといけません。

部員みんなで決めるのが普通ですが、

今回から、バスケを一緒にプレーしたことがないのはもちろん、

ルールすら知らない人が、

話し合いに加わり決めることになりました。

 

部員の一票と、それ以外の一票、

その意味合いの違いを考えてみてください。

一票の意味や重みは同じでしょうか?

 

状況的には同じですよね。

 

社会の運営において重要な役割を決める場所に、

社会でプレーしていない人、

あるいは社会との関わりを重視していないところで学んでいる人を、

無理やり参加させたって、意味はないんです。

少なくとも一票の重みは間違いなく平等ではない。

客観性があるという方もいるかもしれませんが、

客観的投票になるよりも、偶発的投票になる場合の方が圧倒的に多いでしょう。

 

他の国では、16歳から選挙権がある、とか、

若い世代に政治に関心を持って欲しいとか、言っているけど、

方法が間違ってますね。

 

順番が違うと言った方が正確かもしれませんが。

 

まず、他国がどうあろうと関係ないのは言うまでもないので、

おいといて、

若者が政治に関心がないのは、

政治と学生が「関係ない」からであって、

もっと引いて言えば、

社会と学生が「関係ない」からなんですね。

 

まず醸成しないといけないのは、

「社会への能動的不満」であって、「能動的主体形成」です。

それが政治へと向き、

主張の最低年齢の引き下げが、学生から要求され、

引き下げるというのが、

正しい順番かと思います。

 

その要求がない限りは、

引き下げるどころか、

引き上げた方が、

あるいは選挙権の条件付けをしていいとさえ思っています。

 

一応誤解のないように、

18歳は、無知だ!と言っているのではなくて、

あくまで政治批判な訳です。

 

選挙権を18歳にしたいのであれば、

18歳までに、

社会で小さくとも役割を持ち、

社会や政治のあるべき姿を思い描ける程度の教育を行うインフラ整備をやった上で、

やらないと意味ないよ!ということです。

 

事実、18歳選挙の初事例となった福岡県の朝倉市では、

18歳〜19歳の投票率は、38%にとどまっております。

 

これだけ騒いで、しかも最初の注目される場で、半分以上行かない訳です。

これは、18歳19歳の意識の問題ではなくて、教育の問題なんですね。

 

浅はかな反論として、

「18歳から選挙権があるからこそ、学校での学習が身のあるものになるんじゃないか?」というのがあるでしょう。

 

まず、それは身のない投票を容認する期間を、容認することになります。

必ずしも18歳からじゃないといけない訳ではない以上、そのマイナスを被る理由はどこにもありません。

先に学校教育を変えましょう。

 

そして、「じゃあそれは空想じゃなくて、本当に身のある学習になるように段取ってあるの?」という切り返しには、反応できません。

 

つまりは、学生に社会での役割を持たせない学校教育を、

どのように変えていくかが、問題です。

 

ちなみに、文科省が出している18歳選挙権対策はこちら

 

政治や選挙等に関する高校生向け副教材等について:文部科学省

 

http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2015/11/18/1362350_2_3_2.pdf

小さな手で掴めるものが見えるだけで十分

やっと、

「与えることで回る社会」という言葉が出回り始めました。

 

「ギフトエコノミー」という形で。

 

文化人類学のモースや、サーリンズ、ポランニーが描いた経済が、

やっと芽を出してきた感覚があります。

 

今まで誰に話しても学者以外は「ぽかーん」だった、

与えることで回る社会の話。

 

イメージできる人が増えていくといいと思います。

 

近い将来、理性を持って、私的所有の終わりを告げる鐘を「鳴らす」ことができるかもしれません。

 

www.huffingtonpost.jp

百年読書講座 vol.04 課題図書 アリストテレス『二コマコス倫理学』

第4回となる百年読書講座を開催しました。

 

今回の課題図書は、

アリストテレスの『二コマコス倫理学』です。

ちなみに二コマコスとは、アリストテレスのお父さんの名前であり、息子の名前。

 

「お父さんに言われたことを本にしたのかなー」など冗談を言いながら進めました。

今回の所要時間はおよそ2時間半。

 

意外とあっという間でノンストップです。

 

今回の内容は、

倫理学なので、論理学とはことなり、「善いこととはそういうものだ!」という側面が、根元に近づけば近づくほど強く出てきます。

 

基本的には、「善」というのがあって、いろんな事柄の「善」という「状態」を説いております。

 

特に「中庸」であることが大事というのは、おもしろかったです。東洋的で。

逆、倫理に劣等を悪とするような価値観を、当然のごとく持ち込むあたりは、

歴史を見る限りの西洋らしさを感じました。

 

善にも、従属関係があって(例えば、善い鞍を作るときの善さは、善い乗馬のため、善い乗馬は、善い移動のため、善い移動は、善い仕事のためのような感じ)、もう上には何もない、という善が最高善だそうです。最高善を目指すのが政治と言っていました。

 

そして、最高善とは「幸福」であると言っています。。なぜなら多分たくさんの人がそういうから。笑だそうです。

 

しかし、幸福には十人十色ある。

だから普遍的な幸福とはなんだろうね。まず、快楽や富や名誉の中には、存在しないはず。

 

幸福とは、習慣づけや学習によって得られるものであり、それを行っていない動物や幼い子供には得られないものだ。

 

というところから、展開していきます。

 

本当はアリストテレスの「自然学」をやりたかったんですが、

ほとんど出回ってないし、出回っても非常に高いので、今回は倫理学で我慢、、、

 

次回は、

デカルト方法序説』です。

 

7月は、山笠で土日が埋まってしまうため、8月末の開催になります。

 

次回も楽しみです。

 

大きなビジョンと小さな手

起業して、5年目。

 

僕の手は、小さい。

 

僕のビジョンは、

「与えることで回る社会」をつくること。

 

それを、100年、200年、あるいはもっと、それ以上の時間をかけて、

1000年後、2000年後の未来のために作っていきたいと思っています。

 

何から始めていいのかもわからないのに、

大学院をやめ、起業し、思うことは、できる限りやってきました。

 

振り返っても何もない。

 

精神的喧騒の中で本質を探し、

経済的主流に則ることに対して葛藤し、

人間の「楽」へ訴求することに反発してきました。

 

その探求と制限の中で、得られた精神の変化というのが、

自分のやっていること、目指しているものへ向かっていることを、

肯定できる唯一の事象だったように思います。

 

だから、肯定できる部分というのは自分の中にしかなくて、

外にはありません。

 

だからこそ、振り返っても何もない。

 

でも、なんだかもうすぐスタートラインに立てるような気がしています。

 

 

いつも悩んでいること〜自発的な行動とスキルパス〜

教育的な立場にたって、子供たちと接するとき、

いつも悩んでいることがあります。

 

それは、

彼らの自発的な行動をどれだけ待つか、

というところです。

 

ベストは、彼らが、自分で考え、

自分で必要なものを見つけ、獲得していくことです。

最近だと、アクティブラーニングと言われていますね。

※アクティブラーニングっていう言葉を使いたがる人は、

その方の視野を疑った方がいいと思います。

 

そんなことができる子は、ほぼいないですね。

 

特に難しいのは、自分で必要なものを見つける、という段階。

 

一度、山に登れば、何が必要かわかるから、必要なものを得ることができます。

でも彼らは、まだ山に登ったこともなくて、ちゃんと見たこともないのです。

そんな状況で自分で必要なものを見つけるというのは、不可能でしょう。

 

そこで、私たちのような教育的立場の人間が行わないといけないのが、

スキルパスの整備です。

※スキルパス:様々な経験を積みながら、後々必要になるであろう知識や能力を高めていく順序

 

ちなみに学校で行われているのは、スキルパスのほんの一部、「後々必要になるであろう知識を高めていく順序」が整備されている場所です。

 

でも、重要なのは、「様々な経験を積みながら」というところ。

それで初めて、必要だと思うものと、後々必要になると「言われている」ものを、

リンクさせながら学ぶことができるのです。

 

ただ、スキルパスの整備をやりすぎると彼らの自発性を削ぐことになる。。。

次はこれ、次はこれ、はい次はこれって、なるとダメですからね。

 

そのバランスにいつも悩みます。