津屋崎・毎日の大切なこと

津屋崎で日々暮らすなかで、耳にし、目にし、口にする、いろんなモノゴトを、自分の軸を持って綴ります。

「大人である」ということについて

生物として、

他者から得ることでしか、

自己再生産できないという定言的な前提の中で、

それとは逆の方向の行為を、

当たり前のごとく行うのが、

大人なのだと思う。

 

誰かから何かを得るのではなく、

贈与的な主体として、

寛容で、寛大で。

 

大人であるということは、とても力がいるし、

疲れることなのだと思う。

 

そして、大人になるということは、

決してなくって、

大人であろうとする力が、だんだんと付いてくるのだと思う。

 

大人力というのは、持久走みたいなもので、

頑張っていれば、持久力はつく。

 

でも、結局、疲れてくるのである。

 

 

疲れてくると、その回復行動として、

子供のように我儘に振る舞うという、

生物本来の行動が、表面化するのだと思う。

 

昔は、それが、家族や友との間で行われていたのだと思うけど、

今は、ネット上で行われている。

 

だから、昨今は、ネットに関わるものの多くが、

社会的に幼稚なのである。

 

ネット上では基本的に自由なので、そうなってしまうのは仕方がない。

そもそも、大人であるということ自体にパワーがいることなので、

仕事や家族を離れた、ネット上でそれを求めるのは、無理があるのかもしれない。

 

ただ、面倒臭いのが、

ネット上に社会が持ち込まれてしまったところにある。

 

ネット上での幼稚さが、

実社会に影響を与えているのだ。

 

ネット上の無関心を推し進めないと、

表現の自由も、存在の自由も、

どんどん、どんどん、小さくなってしまう。