津屋崎・毎日の大切なこと

津屋崎で日々暮らすなかで、耳にし、目にし、口にする、いろんなモノゴトを、自分の軸を持って綴ります。

津屋崎中学校トークフォークダンス 参加のお願い!

【津屋崎中学校区のみなさまへ】

津屋崎中学校トークフォークダンス 参加のお願い!

津屋崎中学校が、
2年生を対象としたトークフォークダンスを開催します。
参加してくださいませんか?というお願いです。

トークフォークダンスとは??
ちなみにダンスはしません。笑 
中学生とお話をします。

山手線のように内円(地域の人)と外円(中学生)で座って、
1テーマにつき1分話しては、中学生(外円)が一個ズレを繰り返します。
全部で10数テーマかな??
テーマは、当日までわかりませんが、去年の記憶だと、
「最近嬉しかったことは?」というライトなものから、
「中学生の時にやっておけばよかったと思うことは?」など幅があります。

という形なので、中学二年生の人数と同数の地域の参加者(130名)を募っているところです!
同数以内と、中学生の話し相手がいない!という状況になっちゃいますので。笑

いろんな誘い文句があるかと思いますが、
押しつけがましいお誘いをしようと思います 笑

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そこにあるのは、私たちの地域の中学校です。
そこに通っているのは、私たちの地域の子どもたちです。
私たちの後輩といえる人もいると思います。

その学校にはいろんな先生がいて、いろんな評価があるのかもしれませんが、
その先生たちは、私たちの地域の子どもたちに愛情を注いでくれています。
勤務時間だけじゃなくて、放課後も、土日も、子どもたちのことを考えない日はないくらい、
愛情を注いでくれています。
いろんな差や見え方の違いはあるかもしれませんが、これは事実。

そんな先生たちが、「子どもたちにはこの機会が必要だ」と、
トークフォークダンスという機会を用意してくれました。

そして、どうやらそれは「地域の私たちにも手伝えること」のようです。

ということなので、みんなで行きましょう!

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正直、トークフォークダンスをしたところで、中学生にとってメリットがあるかといえば、
微妙だと思います。何か「いいこと」はあるかもしれませんが、それは偶発的です。
その「いいこと」の発生率を上げるために、もっと他の方法もあるでしょう。
地域の人を130人も、四苦八苦して集めて、わざわざやる必要あるん??とか思ったりもします。

でも、そんなんどうでもいいですよね 笑
それらは事実ですけど、おそらく何やっても大同小異です。

大事なのは、
地域の子どもたちに、どんな形であろうと、
「優しさをもって関われる機会があるんだったら、
そして自分にその時間があるんだったら、行っとこうかね」と思ってくれる大人がどれくらいいるか、
そして、「その関わり方を子どもたちにどれだけ見てもらえるか」なんですよね。

もしお時間許される方は、トークフォークダンスに行きましょう。
そして、「優しさ」を置きに行きましょう。
受け取ってもらえるかはわかりませんが笑
きっと見てもらえるはずです。

そんな姿をたくさん見せることができたら、
将来なんか良い世の中を生んでくれそうじゃないですか??笑

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日時:     12月13日(木)14時10分受付 14時30分~16時
会場:     津屋崎中学校 スカイルーム
【要】申込:  名前、住所を、
        私のFBメッセージか、ラインか、
        nobuki.corner@gmail.com

        までお知らせください。

※事前準備がありますので、必ず申込をお願いいたします。

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かくれんぼ

大切なことというのは、かくれんぼが上手だ。

 

同じ場所に隠れているのではなく、探している私たちの動きに合わせて、

移動しながら隠れている。

 

たまに影が見えるけれど、ちらりとだから「○○みっけ」とは叫べない。

 

裏を返せば、

大切なことというのは、常にこちらを見ているのだ。

見つけられないけれど、見えるところにはあるのだ。

 

そして、それを探そうとするかぎりにおいて、

大切なことは、私たちと遊んでくれるのだ。

 

それをやめたとき、大切なことは離れていく。

 

残念なことにそれをやめてしまうと、

大切ではないことが堂々と目の前に現れ、

考えることをやめさせる言葉をささやき、

誘惑してくるのだ。

 

そんな時は、

大切なことを探している人たちが、

「いっしょにかくれんぼしようぜ」と連れ戻すことが必要なのだ。

 

しかし、

その言葉は、誘う側からすれば「優しさ」のつもりだが、

誘われる側からしたら「否定」となる。

 

そんなとき、本当に必要なことは何なのだろうか。

僕にはまだ答えがわからない。

津屋崎中学校 学習サポートのお願い!

【津屋崎中学校 中間考査 学習サポートのお願い!】

津屋崎中学校は、来週9月27日(木)28日(金)が中間考査となっています。
夏休み明けて早いですよね。こんなもんでしたっけ。

今回もまた地域の方に学習サポートのお願いが来ておりますので、

お時間許す方は、ご協力のほどを宜しくお願い致します。

前回は、4名の方にご協力いただきました。
あと5名ほどいてくださると、助かる状況です。

教科は、すべて数学となっています!

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□ 日程
① 9月25日(火)14時から 1年生 文字式、方程式

② 9月26日(水)14時から 2年生 連立方程式、1次関数
         15時から 3年生 平方根、2次方程式
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□ 学習サポートの流れ
①地域の方一人に対して、生徒2〜3名の班が作られます。
②問題用紙が配られ、生徒たちが解いていきます。
→この時、地域の方には解答用紙も配られます。
③答え合わせをしてあげます

出される問題は、各単元の基礎的な問題です!
複雑な応用問題はありませんのでご安心を!
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□ 「学習サポート」サポートもします!
時間もあっていけるだろうけど、
内容を思い出す機会が欲しいという方に朗報です!

僕が、各単元の簡単なレクチャーをします。

9月22日(土)14時〜 たぶん1時間程度
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参加できそうな方、今回は無理だけど次回以降も声かけてーという方、
メッセージいただけたらと思います!
FBの場合は、そのままメッセンジャーでどうぞ。
メールが良い方は、
nobuki.corner@gmail.com
まで、ご連絡くださーい!
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宜しくお願いしまーす!

ハイキングと障害物走

ここ2年ほどで、自分が作ったもの以外の組織に属するということが増えてきた。

 

概ねそれらのすべてで、

「え、なんでこんなに進むの遅いの」(去年の状況から前に進んでいない)

「その課題2ヶ月あれば解決できるじゃん」(それに数年かけようとしている)

ということが起きている。

 

そう思った時に、すべてを言うわけじゃない。

大方、我慢をする。たぶん9割は我慢している。

 

ただ、言っておかないと後悔するかもね、と思った時は、

言うようにしている。

 

正直、感覚が合ってないと感じる。

 

しかし、その捉え方自体が、本当は間違っているのではないか、と思えてきた。

そしてやっと最近、その感覚差がなんなのかということに気がついた。

 

概ね、地域の諸組織は、「ハイキング」をしているのだ。

それに対して私は、「障害物走」をしている。

 

ハイキングとは、語源的に「ぎこちなくゆっくり歩く」と言う意味だそうだ。

ながーく歩くために、進み続けるために。効率的でなく、ぎこちなさも許容しているところも大事だ。そして、そもそもゴールもないに等しい。

 

一方、私は、障害物を効率よく乗り越え、いかに早くゴールに到達するか、と言うことをやっている。

 

もはや、土台が違ったのだ。

 

なので、私が「あの障害物(課題)を飛び越えましょう!」という、改善案を提案したとしても、

彼らにとっては、それは障害物ではないのだ。

ゆっくり歩きながら回り道する対象なのだ。

 

私が、「このスピードで走りましょう!」と言ったとしても、

彼らは、そもそも走るつもりがないのである。

 

 

これで、多少は受け入れることができそうだ。

 

言葉というのは返ってくる。

昨日、僕は、他人の所業に文句を言いました。
これは単なる評価であり、感想であり、否定ではありません。
ただの評価です。
行った人が、楽しかったー
というのと同じで、
近くの人が、うるさかったー
と、
声帯を震わせ空気を振動させた、あるいは、0と1の配列を、そのように見せられるようにキーボードを叩いた、ただそれだけのことです。
だから運営の人を否定している訳ではないということは、
わかっていただけたらと思います。
やめろとは思わないし、言いもしませんが、
ただ、感覚的に、運営が「来年もやろう」と「思っている」のと同様に、
僕も「来年もうるせーと思うんだろうな」と「思っている」という事実はあります。
 
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長ったらしい屁理屈はさておき、本題に入ろうと思います。
言葉というのは返ってくるものです。
僕は、ムナフェスに対して、「うるさい」と言いました。
じゃあ、僕が関わっているよっちゃん祭はどうなんだろうと思う訳です。
開催している二日間は、津屋崎千軒の中を車が通りづらくなります。入りづらく出づらくなります。
そのように「ご迷惑をおかけします」という書類を回覧板で廻す訳ですが、
廻すだけで承認されている訳ではありません。
一時的に歩行者天国になることもあります。
これも、警察に許可をもらいますが、地域の人に承認されている訳ではありません。
漁港となごみにはステージができ、大きな音量で音を出したりもします。
最近は、来客者数が増え、駐車場が足りなくなり、
津屋崎のことを知らない車がウロウロして迷惑をかけたりもしています。
津屋崎のお祭りと言いつつも、
参加者、出展者、出演者、実行委員、それぞれ外の方が増えているのが実情です。
昔は、地域の方の出展が多く、「昔は地域のお祭りやったから協力しよったんやけどねー」という声も聞いたりします。
 
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このような現状を見ると、
よっちゃん祭は、
なぜやるのか?
誰(どこ)のもののなのか?
誰のためなのか?
という問い直しというのが、
必要になってくるのだと思います。
価値の問い直し、と言えるのかもしれません。
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危惧があります。
 この20年の間で、
地域のほとんどの方は少しずつ取り残されてきたのかもしれません。
まちづくり意識高い系(地域自治団体やまちづくり団体、各イベント関係者や私たち)の人たちが、バリバリとやってきたから。
 
それは悪いことではないし、不要なことではないのですが、
地域の人たちが地域のものと思っていない祭ってなんなんでしょうか?
やりたいことだったんでしょうか?
 
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離れていった地域の方と同じような感覚に襲われることがあります。
 
現在、福津市は活発に色々とやっています。
きっと社会的には競争的で発展的でいいことなのでしょう。
 
しかし、活発になればなるほど、地域への影響が出てくる訳ですが、
僕は、そのほとんどに無関心な状態です。
否定も妨害もしないけど。
 
だから、市がやろうとしている大きな流れから、
取り残されていく感覚になるのです。
 
そして、それにすがろうとも思わないし、追いつこうとも、
ましてや協力しようとも思えないのです。
 
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きっと、それと同じことが、
この20年、まちづくり系の人と地域の人との間で起きていたのではないかと思うのです。
 
その取り残されていく感覚は、
地域というものが自分のものではなくなっていくような感覚に近いのではないかと思います。
 
親が、住んでいる地域を、自分のものだと感じられなければ、
その子供も同様に地域を自分の居場所だと感じることはないのではないかと思います。必然的に自分の家以外を、ふるさとと感じられないということも起こるでしょう。
 
僕は、若者の流出をさほど大きな問題とも思っていないし、
地域の過疎化や人口減少もさほど問題と思っていませんが、
 
人が生きる上で、無条件に帰りたい場所や帰れる場所がないことは、
大きな問題だと思っています。
 
地域というものに関わることをするのであれば、
それが、地域のものと感じられるようにする工夫、少なくともその意識が、絶対的に必要なのではないかと、思った訳です。
 
昨日から今日の朝にかけて。
 

これは時代であって、私がおっさんになった証拠なのか?

仕事柄、というか、活動柄というか、

中学生と関わることが多い。

 

なので、ラインやFB、インスタグラムで、彼らの自己表現を、

目にする機会も多い。

 

それを見ていて思う。

 

自己表現に、なぜこうも自己がないのか??と。

 

私が中学生の頃には、ライン等の表現手段がなかったので、

自己との比較はできないのだが、中学生という精神レベルは、

このような自己表現のレベルなのか。

目にするレベルよりも本来は高い気がするのだが。

 

プロフ写真は、何かしらのアイドル、流行りのアプリを使った加工写真、誰かが作った面白い(と思っている)画像。

言語表現は、先輩や後輩、同級生を意識した「友情の確認作業」的表現が多い。

 

私たちの時代とは異なり、

自由な自己表現をできる手段は圧倒的に多いはずだが、

容易に類型化できるほどにバリエーションがない。

 

斬新で他にないものが、健全な自己表現とは思わないが、

無意識に他に思考が依存していることの現れだとしたら、

まずいのではないか。

 

とはいえ、ただそういう時代なのか。とも思う。

 

若者の何でもかんでもを問題にしたがる、おっさんの特技が発動しているのかもしれない。

先生が行きたくなる学校をつくる、という視点。

我々大人は、

子供達のために、何ができるだろうか、

何が必要だろうかと考え、行動をします。

 

彼らが主体性を持って、のびのびと成長していくために、

何ができるだろうかと考え、行動します。

 

主に、学校の外。外部として、地域として。

 

概ね、見ているのは子供。

 

時には、「子供のためである」ということを振りかざし、

誰かを、特に学校の先生を、否定したりしてしまうことも。

 

ですが、最近、学校と関わることが増えて来て、思うことがあるんです。

 

子供達に何かしてあげることを増やすよりも、

義務教育の9年間、

昼間の最も活動的な時間を、

子供たちと共にする学校の先生のために、

できることを考えた方がいいんじゃないかって。

 

正確には、当然子供達のためにも何かするんですが、

同じくらいの重要度で、

先生たちのためにも何かしないといけないんじゃないかって、

思うんです。

 

学校の先生は、多忙です。我々が思っている以上に。

毎日の授業はもちろんですが、勉強を教えるだけじゃないですからね。

決まったことを教えることと同時に、子供達の自主性、主体性も育まないといけません。

 

決まったことを教えるときは、「見ていて」いいですが、

主体性を育むときは、「見ない」ことが非常に大事になって来ます。

「大人が見ている時だけする」のは主体性じゃないですからね。

「見ない」でやらせて、「失敗する」「自分の力で成功する」などの経験もさせないといけません。

 

これは難しいことですが、さらに難しくさせていることが、

「もし何かあった時」という言葉。

主体性を育むという目的で、

「見ていない」時に、何か事故が起きたら、いくら教育のためとはいえ、

先生の責任、学校の責任とされてしまいます。

 

だから結局、

「見ながらにして、見ない。」

 

どこかの古武術の極意のような作業を、

常時しないといけないのです。

しかも、同時に30人以上の子供に対して。

我が子、1人、2人の話じゃありません。

 

 神経をすり減らして、教材研究を十分に行う時間もありません。

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つらつらと書いていると、書くこと多すぎてめんどくさくなって来たので、

飛躍させますが、

学校の先生って、忙しいし時間がないし変な責任をたくさん負わされているんですね。

 

で、それって、子供たちにとって、良くないわけです。

心にゆとりがなく、何かに追われている人に教わる、日々一緒にいるって大人でもマイナスな影響受けますよね。当然、子供もそうなわけで。

 

自分の人生に目を輝かせ、ワクワクしている大人に育ってもらうためには、

まずは、そのような大人(ワクワクした大人)に触れることが大前提だろうと思うんですね。

 

そのような考えに立脚した時に、

「先生が行きたくなる学校をつくる」という視点って、

ものすごく大事になってくると思うんです。

 

それで、特に中学校くらいまでの市立学校の場合は、

その視点をもって行動すべきは、

我々地域の人間なのではないだろうかと思うわけです。

 

だって、そこの学校には、我々の地域の子供達がお世話になるわけですから。

 

今までって、そんな当たり前のことを、

おろそかにしてきたんじゃないの?って思うのです。

 

いろんな組織的な前提があるかもしれない。

社会的なしがらみがあるかもしれない。

 

そんなことはどうでもよくって、

学校って、

我々の地域の子供達が通う場所であって、

多大な愛情と時間を使って接してくれる大人がいる場所なんですよね。

 

こういうのって「先生」という仕事なんだから

当たり前でしょっていって、蓋をしていいことじゃないと思うんですよね。

 

先生たちが自分でやればいいじゃんっていう人もいそうですけど、

システムの中にいる限り、それは根本的に不可能だし、

そもそも、そんな時間ないですからね。

 

何か行動するのは難しいかもしれないけど、

学校というものの見方を変えるのは簡単だと思うんですね。

 

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そこにあるのは、

地域の学校であって、

通うのは我々の地域の子供達です。

そして、そこには、彼らに多大な愛情を注いでくれる大人がいます。

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そんな当たり前のことを、暮らすということの中に、

据え置けたら、ただそれだけで、いろんなことがうまく回り始めるのだと思います。