言葉というのは返ってくる。
昨日、僕は、他人の所業に文句を言いました。
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これは単なる評価であり、感想であり、否定ではありません。
ただの評価です。
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行った人が、楽しかったー
というのと同じで、
近くの人が、うるさかったー
と、
声帯を震わせ空気を振動させた、あるいは、0と1の配列を、そのように見せられるようにキーボードを叩いた、ただそれだけのことです。
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だから運営の人を否定している訳ではないということは、
わかっていただけたらと思います。
やめろとは思わないし、言いもしませんが、
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ただ、感覚的に、運営が「来年もやろう」と「思っている」のと同様に、
僕も「来年もうるせーと思うんだろうな」と「思っている」という事実はあります。
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長ったらしい屁理屈はさておき、本題に入ろうと思います。
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言葉というのは返ってくるものです。
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僕は、ムナフェスに対して、「うるさい」と言いました。
じゃあ、僕が関わっているよっちゃん祭はどうなんだろうと思う訳です。
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開催している二日間は、津屋崎千軒の中を車が通りづらくなります。入りづらく出づらくなります。
そのように「ご迷惑をおかけします」という書類を回覧板で廻す訳ですが、
廻すだけで承認されている訳ではありません。
一時的に歩行者天国になることもあります。
これも、警察に許可をもらいますが、地域の人に承認されている訳ではありません。
漁港となごみにはステージができ、大きな音量で音を出したりもします。
最近は、来客者数が増え、駐車場が足りなくなり、
津屋崎のことを知らない車がウロウロして迷惑をかけたりもしています。
津屋崎のお祭りと言いつつも、
参加者、出展者、出演者、実行委員、それぞれ外の方が増えているのが実情です。
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昔は、地域の方の出展が多く、「昔は地域のお祭りやったから協力しよったんやけどねー」という声も聞いたりします。
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このような現状を見ると、
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よっちゃん祭は、
なぜやるのか?
誰(どこ)のもののなのか?
誰のためなのか?
という問い直しというのが、
必要になってくるのだと思います。
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価値の問い直し、と言えるのかもしれません。
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危惧があります。
この20年の間で、
地域のほとんどの方は少しずつ取り残されてきたのかもしれません。
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まちづくり意識高い系(地域自治団体やまちづくり団体、各イベント関係者や私たち)の人たちが、バリバリとやってきたから。
それは悪いことではないし、不要なことではないのですが、
地域の人たちが地域のものと思っていない祭ってなんなんでしょうか?
やりたいことだったんでしょうか?
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離れていった地域の方と同じような感覚に襲われることがあります。
現在、福津市は活発に色々とやっています。
きっと社会的には競争的で発展的でいいことなのでしょう。
しかし、活発になればなるほど、地域への影響が出てくる訳ですが、
僕は、そのほとんどに無関心な状態です。
否定も妨害もしないけど。
だから、市がやろうとしている大きな流れから、
取り残されていく感覚になるのです。
そして、それにすがろうとも思わないし、追いつこうとも、
ましてや協力しようとも思えないのです。
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きっと、それと同じことが、
この20年、まちづくり系の人と地域の人との間で起きていたのではないかと思うのです。
その取り残されていく感覚は、
地域というものが自分のものではなくなっていくような感覚に近いのではないかと思います。
親が、住んでいる地域を、自分のものだと感じられなければ、
その子供も同様に地域を自分の居場所だと感じることはないのではないかと思います。必然的に自分の家以外を、ふるさとと感じられないということも起こるでしょう。
僕は、若者の流出をさほど大きな問題とも思っていないし、
地域の過疎化や人口減少もさほど問題と思っていませんが、
人が生きる上で、無条件に帰りたい場所や帰れる場所がないことは、
大きな問題だと思っています。
地域というものに関わることをするのであれば、
それが、地域のものと感じられるようにする工夫、少なくともその意識が、絶対的に必要なのではないかと、思った訳です。
昨日から今日の朝にかけて。